松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『ぼくたちは見た  ガザ・サムニ家の子どもたち』

昨日、古居みずえさんの『ぼくたちは見た  ガザ・サムニ家の子どもたち』という映画を見た。映画の後のイベントにも参加し古井監督のお話を聞く機会も得た。


古居みずえさんの映画は『ガーダ』という映画を前に見た。長い時間軸で一人の女性の成長を描いた作品で、パレスチナという言葉から予想される政治性は背後に埋め込まれそんなには目立たない映画だった。今度もその延長で予想していると、裏切られた。


2009年の正月前後、イスラエルによるガザの空爆及び地上軍による攻撃があった。「私は過去20年あまり、パレスチナに通い続けていますが、このときの攻撃のように民間の家々をはじめ、モスク、工場、学校、オリーブ畑など、ありとあらゆるものが破壊され、3週間で1400人というたくさんのパレスチナの人たちが殺されたことは初めてでした。」と古居は言う。http://whatwesaw.jp/#dir


攻撃終了直後、古居は現場に入る。その時、一人の少女に古居は眼を止める。彼女が少女でありながら絶望のあまり死んだような眼をしていることに強い印象を受ける。それをきっかけに古居は子どもたちに話を聴き始める。


子どもたちは意外にも自分が受けた悲惨な体験をどんどん語り始める。ある少年は語り続ける。これが父親の血(が付いた石)、これも、これは弟の(血が付いた壁)、これは僕の(血が付いた壁)・・・といった調子で。
また一人の女の子は顔を真っ黒に塗り始める。自分はイスラエル兵になったんだと言って冗談で小さな子供を脅かしたりする。
また彼女たちは絵を描く。兵士たちに並ばされて閉じ込められ爆撃され流血する場面の切れ端を、彼女たちはたんたんと描きつづける。


ここで表現者とは誰か、という逆転が起こっている。


常識的には表現者はジャーナリストである古居であり、彼女たちは被害者であり(年少なので不十分にしか証言できない)証言者であり、被写体である。主体はあくまで先進国のカメラのファインダーの後ろに居る撮影者とその位置にすり変わって被写体を享受する観客にある。被写体はあくまで客体である。その被害の程度、そのテロリズムとの親和性を観客によってチェックされる客体であるにすぎない。


しかし実際には、そこで被写体とされる者は幼くとも人間であり表現主体である。言語を絶する悲惨*1を体験した者は、沈黙のうちに閉じこもると思われがちだがそうでもない。危機を消化できない時人はそれをなんとか表現し自己の内側では耐えきれない矛盾を少しでも外に出そうとする。


そのような直接的な表現を捉え、編集して作品にまで仕上げたこと、これは稀有のことだと思う。そして最低限の予備知識さえあれば、ガザ攻撃とは何だったのか?その悲惨さ、非条理性を理解できる。


イスラエルパレスチナ問題の古く複雑な経緯とやらいうもの、あるいはこれほどの不条理を放置しつづけてきた複雑怪奇な国際情勢、そうしたものを理解しなくてはイスラエルパレスチナ問題は語れないものなのか?確かに問題として形成された「イスラエルパレスチナ問題」については*2そうであるしかないのかもしれない。しかし、私たち日本の一市民はそうした枠組みに捕らわれる必要は無い。そこで何があったのか、知るのは困難ではない。彼ら自身が表現しているのであり、注意深い記録者が*3それを「そのまま」私たちに提供してくれる。


私たちは見ることができる。What We Saw? 彼らが何を見たかを? そして見ることはおそらく理解することだ。*4


優れた映画だと思った。

■神戸 元町映画館
http://www.motoei.com/
10月1日(土)〜10月14日(金)11:00〜1日1回上映

■京都 京都シネマ
http://www.kyotocinema.jp/
10月1日(土)〜10月7日(金)10:00〜
※10月2日(日)上映後に古居監督による舞台挨拶予定あり

*1:例:銃撃を逃れるため皆で部屋の一隅にかたまって座っていると突然血が降ってくる怪我をしたかと慌てると膝の上に叔母の首が飛ばされてきてるのを知る・・・

*2:国際政治という場で、ジャーナリズムという場で、

*3:現在のハイテク機材のお陰で比較的容易に

*4:表題において「彼ら」が「We ぼくたち」にすり変わっているのは、ある不可避性を告げているであろう。