松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

福島県知事佐藤雄平と山下俊一の首

”「福島」を見捨てて「人」を救う”というスローガンは、とくに反原発を主張するひとたちにおいて、しばしば手放しで賞賛され、受け入れられている。その原則を背景に、瓦礫含む放射性廃棄物の処分場を福島につくれという主張や、福島の農産物はすべて廃棄すべきという主張、ひいては福島を「廃県」にするという主張までなされるのである。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20111116/p1

福島を廃県にせよ、という主張は二つの意味がある。そもそも福島県という言葉には二つの意味がある。福島県という地域全体を差す場合と知事を頂点にした行政機構(警察、教育など含む)を差す場合である。
後者の県庁組織は、「山下俊一氏を2011年3月19日に福島県知事佐藤雄平の要請により、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーとして雇い」活発に発言させた。「福島における放射線による健康被害はない」路線の採用である。
チェルノブイリでは 0.4μSv/時 で「廃村」になる。
福島市は下記に見るように1.0μSv/時を越えている。市のほとんどの住民を避難させるという判断があってもおかしくない。
http://shinsai.city.fukushima.fukushima.jp/?p=12474
ところが、現実には「福島を守れ!」のスローガンの元に、住民避難については論じることすらタブーとされたまま現在に至っている。
すなわち、現在(というか前から)最大の論点は、住民避難について、山下基準を取るか、チャルノブイリ基準を取るか、という分岐である。
ところが「原発なしに日本の社会は回るのか?」といった偽りの問いが、最大の論点にされてしまった。


福島を廃県にせよ、という主張をしている人ほとんどいない。行政が山下基準というあまりにも偏った基準を採用し、県民の健康被害を増大させつづけていることをなんとしても許しつづけてはいけないという怒りが、臨界を越えたとき知事、県庁ひいては福島というものを否定するというレトリックが生じたにすぎない。