松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

東洋自由の原理は強制になじまない。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624#c1246678405
修身斉家治国平天下という儒教道徳の基礎は、自己の中で自己を充実させることにより聖人に至りうる自己を確立することにあります。他者の教えに唯々諾々と従っているようではダメなのです。この考え方は本来天皇主義の中にも採り入れられているはずなのですが。(野原)

と昨日書きました。儒教は体制護持のイデオロギーという戦後左翼的偏見が強いです。歴史的にそうした機能をもっぱら果たしてきたことを否定するものではありませんが、そうではない側面もあることを強調したいと思います。
君が代」を強制したがるひと(上田知事など)を侮蔑するためです。

誠は充実である。意は、心から発出するものである。心から発出するものを充実し、必ず自己に満足し自己を欺かないようにする。
朱子「大学章句」 p126 中島隆博「残響の中国哲学isbn:9784130101042

自己を修めようとするものは、善をなして悪を取り去ることが大事だとわかっているなら、当然、充実した仕方で自分の力を用いて、自己欺瞞を禁止すべきである。悪臭を憎むがごとく悪を憎み、美しい色彩*1を好むが如く善を好むようにして、何としても悪を取り去り、必ず善を手に入れようとするなら、自ら自己に満足できる。しかし、かりそめにも外に従って他人を気にしていては駄目である。充実しているか充実していないかは、思うに、他人がうかがい知ることができないもので、自分一人がわかっているものだからだ。だから、必ず自分一人の状態を慎んで、そのきざしをつまびらかにする。
(同上p127 朱子「大学章句」)
http://kanbun.info/keibu/daigaku06.html

はじめに自己(心)がある。心から発するものにおいて自己欺瞞におちいらないようにし、悪を遠ざけるようにする。自己のありようは自分一人しか分からない。だから余計に自己を正確に取り扱うことが求められる。

 学は立志より要なるはなし。しか(而)して立志も亦之を強(し)ふるに非ず。只だ本心の好む所に従うのみ。(佐藤一斎

 外的利害などによる他者からの誘導を撥ね退け、純粋な〈志〉において判断し、また社会に働きかけていく。
 佐藤一斎の弟子である西郷隆盛が、明治維新の時期に行ったように、それは時としては体制や法の枠組ですら突破するものでありえた。
 まあそれは昭和維新期のテロリストたちにつながっていくものでもあり、それが問題であることは否定しない。しかしあの悲惨な戦争を遂行した第一義的責任者は、官僚体制のなかで生き延びてきた軍人たちや革新官僚、政治家たちであり、テロリストたちではないことに注意しなければならない。
 
 
 責任の所在をはっきりさせず自己の卑小な利害のために、服従好きな国民だけを欲してきた顔の見えない官僚たちを憎悪し、君が代をうまくすり抜けていこう!

*1:好色 普通の意味に取ってもいいだろう