松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

這箇はしかしどこまでも〈気〉だ!

朱子」という本を図書館で借りて読みました。*1 どうでしょうね。

 朱熹が練り上げた哲学的ヴィジョンは、要するところ、生きとし生けるものにともに与えられている「いのち」の溌剌たる働き交わしを基底に築かれていると云うことができるだろう。朱熹は、付与された肉体のパーソナルな欲求に従うのではなく、「天地自然の心」の賦与に他ならない〈われ〉の「いのち」の、他者の「いのち」に直截に感応する性能を熟知し全うせよ、と説く。この天地万物にパブリックな「いのち」を直截に生きることこそ、天より〈われ〉に課された「よろこばしき(善なる)」職務である。その即無の条項(性)を知(つか)み、その条項に示されたる具体的な仕事(事)の遂行に邁進せよ、と朱熹は説いたのである。
(同書 p178)

朱子語類」の這物事(ヂェーウーシ)這箇物事(ヂェーガウーシ)に注目し「こいつ」と読むのは面白い。
 だけどもう一つで、違和感もないが特に意外性もない。結果的には「天地の間一元気のみ」*2と言う仁斎と同じ感触になっているからだ。
木下氏は、パブリック、職務、仕事といった言葉をわざと使っているのだが、そこにこめた自分の思想を展開できていない。上記の「いのち」もそうだが単語が常識的なまま投げ出されているだけだ。

 まあ、たとえばね、天地の間の人や物、草木や禽獣など、生まれて来るについて、種がないものはない。どうしたって種子(たね)がないままポンと一つのものを生み出すなんてはずがないようなものだね。這箇(種、種子)はしかしどこまでも気の話だ。理となれば、それはただただ汚れや曇り一つなくからりと晴れわたった世界で、感覚で捉えられるものは何一つなく、物を作り出すなど、あろうはずもない。気の方は醞醸(かも)して凝聚(こりあつま)って物を生み出すことが出来るのだ。ただしかしこの気があれば理は自然(ひとりで)にそこにある。
(同書 p121)

 種子と言えば、現在ではジーン(gene)とかコーデックス委員会とかを連想し、西欧文明の根幹にはやはりプラトンイデア説があるのだなあなどと思ってしまうわけですが・・・*3 
そのような常識からは「這箇(種、種子)はしかしどこまでも〈気〉の話だ。」というのはびっくりします。イデアみたいな物でないなら〈理〉とはいったい何なんだとわからなくなるわけです。*4

おとなりの朱子

はてなキーワード(isbn)から下記記事を発見。
わたしと違って、肯定的に紹介しておられる。
http://d.hatena.ne.jp/martbm/20090427/1240769655

すなわち第1部第2章に見た皇帝国家をパーソナルな人間集団と捉えるヴィジョンからパブリックな「職」の体系=機関と捉えるヴィジョンへの転轍である。

パーソナル/パプリックという対立は分かり易いが、二千年も同じ価値対立があったかのような構図はフーコー主義者としては受け入れがたい。もっときめこまかい議論ができるはずではないかと思ったということです。

*1:朱子 木下鉄矢 isbn:9784000282871 C0310

*2:p15 思想体系 伊藤仁斎・東涯

*3:しったかぶり

*4:今日は分からないことだけ確認して終わり。