松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしの力をアクティブにすること

格物致知と並んで、朱熹の「大学」解釈が独自であったのは、本文にある「親民」を「新民」と新ため、それを「明明徳」と連動させたことにある。「すでに自ら自己の明徳を明らかにしたなら、当然それを他人に推して及ぼし、彼らにも自分に古く染み込んだ汚れを取り除くようにさせる」(大学章句)とあるように、自己の「明徳を明らかにする」ことを「民を新たにする」ことへ、すなわち自己から他人へ向かって連続的に啓蒙が拡大していく方向を読み込んだのである。
残響の中国哲学 p133 isbn:9784130101042

しかし、ここには、はじめから明白な矛盾があった。


というのは、そもそも「明明徳」という啓蒙は「自ら自己の明徳を明らかにする」と述べられるように、自己啓蒙であって、他人という外部からは窺い知れない自己の内部の行為であるだからだ。それが他人に拡大され、しかも他人を啓蒙するというのは、自己啓蒙という原理とは相容れない。


わたしは明白な矛盾があるとは思わない。
身体的にはわたしたちは毎日の食事睡眠自己をリフレッシュしそれを当然だと思っている。思想的には自己のごく上辺だけしかリフレッシュせずそれを当然だと思っている。
わたしというものもパソコンにいくらか似ているはずだ。パソコンは電源を切られるといったんただの箱に戻る。何もないゼロに戻るのだ。しかし電源を入れるとはてしない自己学習をわずか数分で終えて、また昨日の続きの顔を見せてくれる。

The point where to rest being known, the object of pursuit is then determined; and, that being determined, a calm unperturbedness may be attained to. (大学 第二節)
http://www.sacred-texts.com/cfu/conf2.htm

参照点を定めることによりどんどん自己を拡大参照していくことができる。これはパソコンが立ち上がるときのイメージに酷似している。
およそ「A=A」が成立するためには、自己組織化の膨大なプロセスが今日もまた奇跡的に完遂されたことが必要なのだ。
で自己の成立の次はネットワークである。他者を認めるために通信、プロトコルなどといった新しい概念が必要になる。しかし当然ながらそれらは自己組織化という原理と矛盾するものではない。