松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

国立メディア総合センターは八百万(の神)

を展示するものらしい。


実はアーティストであるらしい明和電気社長さんは、国立メディア総合センターの企画会議に参加しているらしい。ほんとかな。http://maywa.laff.jp/blog/images/2009/07/08/photo.jpg
のような 俗悪の極みの「絵」を文化庁が偉い官僚方の前にまじめに広げてみせているのだ!

さて、日本は八百万の国なので、アポロ計画のような、厳しいミッションは
ありません。

でも、もしですよ、
スミソニアンのアポロの展示なみに、国家が
マンガやアニメやゲームやフィギュアやオモチャや、
そんな、そんな、いろんな日本人が作り出した「オブジェ」を
壮大なスケールで展示したら、

かつて僕がスミソニアンで感じたような、「日本という国の宗教」
の強烈な体験をするのではないか?という気がするのです。
http://maywa.laff.jp/blog/2009/07/post-2e41.html

明和電気社長土佐信道さんは数年前アメリカ横断旅行をした。そのとき、スミソニアン博物館の「アポロ計画」の展示をみて、異様な感銘を受けた。米国人がもっているある宗教性の真髄を感じたのだ。
日本人は戦後、(偉い人からは蔑まれるところの)マンガやアニメやゲームやフィギュアやオモチャやらを、限りない量作成してきた。
そうしたものを求心的に展示することによって、別の宗教的ともいえる感動を作りあげることができるのではないか? と土佐さんは言っている。

あめつちのはじめのとき
たかまのはらになりませるかみのなは
あめのみなかぬしのかみ。
古事記 冒頭)

天地初発の時と書いてあるのだからそう読めばいいのにそれではダメだと言ったのが本居宣長

さて、かく天地の初発と云えるは、ただまずこの世(仏書に世界と云いて、俗人も常に然いふなり)の初めを、おおかたに云る文(ことば)にして、
宣長 古事記伝1 p170 岩波文庫

天地初発にこだわるのはキリスト教である。現在の科学的宇宙論では天地初発は今から130億年ほど前ということのようですが、形而上学的には悠久の昔であろうがなかろうがそれが特定のある1点から始まったのかどうか、ということが大きな問題になります。
宣長は天地初発を論じながら、強い意味での「天地開闢」という形而上学からできるだけ身を遠ざけようとします。その彼の思想が「おおかたに」という一つの副詞に表出されています。

迦微*1をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がった詞の外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい生きた思想だったという、確信なくして、あの「古事記伝」に見られる神名についての「誦声の上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。
小林秀雄本居宣長
http://www.geocities.jp/taka19602001/koyabishi2.htm

フィギュアはただひたすらな愛によってフィギュア以上のものになる、といったことが古代にもあったのだ、といえばそれは(たぶん)古代文化を軽く見ることになるかもしれない。ただそのような物神化やアニミズムの意外なほどの広がりを正当に評価〜批判できなければ、・・・
例えば、神という言葉一つにおどろくほど禁欲的に慎重に註釈を重ねつづけた宣長が、同じ口から「皇大御国は、かけまくもかしこき神御祖天照大御神のみあれませる大御国にして、」*2と放恣に語り始めるのを自制しなかった歴史を繰り返すしかない。

*1:かみ=神

*2:同書 p89