松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

言葉の上の正義

 大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは(一応掃除とかもした後)孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。でも紅白とか覗いてみたがヘーゲルより面白くないとはどういうことだ! p262ギリシローマ時代、徳性は民族共同体にしっかり根を下ろしていた。
 近代の徳性は、共同体をぬけだした本質なき徳性であって、実質的内容を欠く、観念とことばの上での徳性にすぎないのである。世間とたたかう徳のおしゃべりの空虚さは、その意味するところがはっきりすればすぐにも暴露されてしまうので、徳のいい草にはなんの新鮮味もないのだ。で、わかりきったことをいわなければならないとなると、あらたなものいいを工夫して熱弁をふるうか、心に訴えかけて、いいたいことを内心でつぶやいてもらうしかない。(略)そうしたいい草の山や、もったいぶった口調には、だれも興味をいだかなくなっている。退屈なだけの話が興味をかきたてないのは当然のことである。*1
 で急に話は二百年後の現在に飛ぶわけですが、今年、時代の変化を観察できたのはやはり、総選挙の社民党共産党の退潮でしょう。わたしは今憲法九条の削除に反対です。イラク派兵にも反対、つまり民社党よりも「社民と共産」に近い(といえる)。ただ、「護憲」「憲法9条」とかが絶対の正義であるかのように声高に言う人に対してはわたしも異和感を持ちます。建前としての絶対平和主義は、本音としての米軍(安保条約)と自衛隊という現実、と表裏一体のものとして戦後五十年間日本の言説空間でメジャーだった。正義派のひとはそういう風には現実を見ない。自分たちは常に正義であるが、残念なことに悪であるところの世間が正義を押しつぶそうとする。私たちは苦しいがそれでもたたかい続けるという志は失わない。シニカルに言ってしまえば彼らにとって一番大事なものはナルシズムなのだ。で、上記のヘーゲルは、わたしには(わたしだけかもしれないが)そういった正義派の人への揶揄としてそのまま受け取れるのです。
 各個人が自分の為に行為しているとしてもその行為の総和は、善を現実にもたらすことになる(はずだ)、とヘーゲルは思っている。ブルジョアの自由が歴史を前進させた時代もずっと昔にはあったのね。ということなのか。「なりゆきまかせの個人は自分だけのために利己的に行動していると思いこんでいるかもしれないが、実は思いこみの上を行く存在であって、その行為は同時に潜在的な善を実現する共同の行為でもある。」 

*1:p262『精神現象学』作品社 ページ数よりもどの部分かの方が大事ですね。「5理性」は、金子氏によれば「観察/行為/社会」と分かれる。「B行為」は「快楽/心胸/徳」と分かれる。引用は「c.徳」の終わりの方からです。