松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

安全で無垢な<わたし>

つまり日本国内における<わたし>が絡めとられてしまう捻れとは、次のことである。現在の日本国の状況において、従軍<慰安婦>問題に関わる当事者であろうとすると、国民国家=血縁の共同体の一員であることに無批判であり続けるか、それとも、従軍<慰安婦>問題の責任の所在を追求するために、この国民国家からは距離をとり、安全で無垢な<わたし>を確保し、<わたし>自身が位置づけられている諸々の権力の網の目からはあたかも無関係な<わたし>を確立するのか、という二者択一の前に立たされてしまうようなのだ。p115 岡野八代『法の政治学isbn:4791759699

わたしは戦争を体験していない。その意味で無垢である。一方でイラク戦争(人殺し)に荷担していることは否定しえない。 で「大東亜戦争」についてもその罪を主観的に否認しているところの安倍政権を成立させてしまっている責任が存在する。そのように私とは有責の関係のただ中にいる有臭の存在である。で、なかった派は、有臭の存在であるという自己認識を持つところまでは正しいが、そこから<反省>をしないのが当然だと論理を進める。これは明らかにおかしい。

このおかしさの責任は上記の二項対立を放置し構築さえしてきた左翼にもあることは認めるべきだろう。正義というものが、西欧起源の無垢な空間に、国民国家=血縁の共同体とは切り離されたものとしてだけ存在するという強固な信念。それは最新のデリダアーレント、コーネルといったシーンにおいても再演されているのだ。

わたしたちは常に性交する存在としてあったしアジア人としてあった。有臭存在であるわたしたちはまた、<天>や神の愛、正義を必要とし、そのために(いつもではないが)戦い続けてきた。不正義に目をつぶることはしばしば強者の利潤のために要請されているにすぎず笑止である。