松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

あたしesは「われわれ」を選択する

 黒猫さんが引用した限りで斎藤純一さんを一応仮想敵みたいに考えてたみたいなところもありますが、彼の文章が載っているその論文集には、(野原が依拠しようとしている)岡野氏の文章も載っているのだった。いま気付きましたが。(誰にでもケンカを売らず友好的でありたいものです!)
戦争責任と「われわれ」、を検索すると、自由主義者おおたさんが「岡野八代を読む(1)「わたしの自由とわれわれの責任」」として岡野氏のその論文を丁寧に紹介している頁が一番にヒットした。

「岡野がこの論文で訴えているのは」、「「戦後世代の戦争責任」という問題が、けっして「戦後生まれの日本国民」という抽象の問題ではなく、わたしの問題であること」だ。と冒頭でおおた氏は強調する。

岡野の思考の出発点は優れて具体的である。ある時飛行機である韓国人男性の隣の席に座り「日本はかって朝鮮半島に何をしたか」という会話に閉じこめられたという岡野の体験から彼女は考える。

わたしが行ったわけではない行為について、それを想起するように求められる根拠とは、おそらくわたしが属しているであろうこの「われわれ」の存在のゆえである。(岡野)*1

ここでおおざっぱには「われわれ」=日本国民である。ただそのあたりを丁寧に考えていく必要があるのだ。

岡野が日本国の国籍保有者になったのは、岡野の選択の結果ではない。しかし、岡野が日本国の国籍保有者でありつづけていることは、あるいは日本国民であると自己を理解し始め、理解していることは、けっして選択の余地のないことではない。あるいは、「わたし」が日本国民であるというアイデンティティーをもっていることは、けっして選択の余地なく、あらかじめ決定されていることではない。「わたし」は、日本国民であることを、少なくとも止めることができる。

「わたし」が、そうであることが当然と思われる「われわれ」の一人であることは、けっして当然のことではない。
http://uhei.vis.ne.jp/LibertyandPeace/Politics/yayo1.html

わたしは国籍を捨てることができる。つまり捨てていないのは捨てないことを選択しているからだ。「日本国民であるというアイデンティティー」(曖昧な言葉だが)についても同じことが言える。
「わたしは自明にもわれわれの一人である」ようだが実はそうではないのだ。

「わたし」たちが、「われわれ」であることを選択する前に、すでに「われわれ」が存在するわけではない。「わたし」たちが「われわれ」であることを選択することによって、「われわれ」はあらわれる。(おおた 上記より)

「わたし」が「われわれ」の一人であることが、当然のことではないならば、自由への別の道があるのではないか。わたしという自明の存在、「われわれの一員としての」わたしという存在をわたしの手で開いてみること、そのような「わたしの自由」の可能性があるのではないか。こう岡野は問いかけて、この論文を終える。(おおた 上記より)

ところが、岡野氏の場合、わたしとわれわれの間に、選択の意志を(ちょっと無理して)読み込もうとする。国家=われわれ というものはわたしたちがその都度*2、(無意識に近いところで)同意を与えることによって形成される多数多様な位相から成る共同性でありましょう。そうであるなら「「われわれの一員としての」わたしという存在を開い」ていくことにより、「われわれ」を変質させることは確実にできるわけです。
(9/19下記の通り訂正)

*1:p160「<わたし>の自由と<われわれ>の責任」『法の政治学isbn:4791759699

*2:つねにすでに