松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

民主主義とは、市民(私)が人を裁くことだ。

と思っている。

 来年5月から始まる裁判員制度について、長野市善光寺玄証院、福島貴和住職(61)は1日、長野県庁で記者会見し「宗教者は人を裁かないで済む世の中にするのが役目。人を裁くことなどできない」と廃止を訴えた。

 福島住職は「裁判員には人を裁くつらさがふりかかる」と指摘。「人の心を乱す悪い制度を国民に押しつけるべきではない」と述べた。会見に同席した長野県の市民団体「裁判員制度はいらない市民の声」世話人の小野千鶴さん(67)は「人を呼び出して裁かせる制度自体が問題」と話した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081201/trl0812011311003-n1.htm


 「宗教者は人を裁かないで済む世の中にするのが役目。」 来るべき世の中のヴィジョンを自身に受肉し、常識とは反してもそれでもって生きていくという宗教者の存在は必要だろう。
 しかし、この世では、人が人を殺し人を騙す。また国家が人を殺し人を騙す。このような世の中に正しい秩序ではなくとも少しでも正義を回復するため裁判制度がある。この住職は裁判制度を否定しているのか、そうではないのかがはっきりしない。
 わたしは裁判制度を否定しない。しかし現在の裁判制度は国家を裁くことが基本的にはできない。*1 国際司法機関建設に消極的な米国などの動きに反対し、また女性国際戦犯法廷など民衆による法廷への模索を積極的に押し進めるべきであろう。
 国家は人を殺す。しかしそれは合法的である(法に反しないとされる。)死刑を廃止してもなお戦争は残る。オバマも日本の首相もアフガン戦争の推進を肯定している。
 このような構造は許容できない。それを転倒していく道筋がないならば、どうすれば良いだろうか。せめて国家の直接の共犯者になるのは嫌だと拒否すべきだ。という結論に導かれるのは当然だ。

 
 「人を裁くつらさ」は存在する。私たちが裁判制度に参加しないとすれば、死刑の場合、宣言する裁判官、署名する法務大臣、執行する刑務官にまかせて、自分たちは手を汚さず知らん顔という無責任な場所に無自覚に身を置きつづけたい、と言っていることになる。


どうすればよいか? イラク・アフガン戦争への加担、死刑制度には明確に反対であると意思表示し、国家によって拒否してしてもらってから、拒否は不当であるとして裁判を起こすべきだ。と思う。

*1:国家賠償法はあるが