松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

検察と被害者の誘導が容易になるだけ

もっとも懸念されるのが、裁判の大原則である“推定無罪”の意味をほとんどの国民もマスコミも理解せず、時に、裁判官でさえ無視しているのではないかと思えるような日本の現状で、法律の素人が裁判に参加することの危険性である。
http://d.hatena.ne.jp/butch1960/20081201/1228126303

 裁判員制度に関してメディアは「あなたが裁判員になったら」という視点から報道しているが、私には、なぜ「あなたが被告になったら」という視点がないのかが納得できない。裁判員になることは想像できても、被告になることは想像しにくいということもあるだろう。しかし、どんな裁判制度においても、最も懸念すべきは冤罪である。(同上)

 市民の司法参加に最初は反対していた裁判所が、最終的には裁判員制度に賛成し、今では盛んに宣伝しているのは、この制度が裁判所、ひいては法務省に有利だと判断したからに違いない。何しろ評議の中身は公開できないのだから、裁判官がいかに不当な司法指揮をしてもそれは外部に漏れないことになる。それでいて、不当な判決はすべて裁判員のせいにできる。(同上)

 butch1960さんの意見に全面的に賛成である。わかりやすく説得力もある。

裁判官がいかに不当な司法指揮をしてもそれは外部に漏れないことになる。

ただ市民がそれを知れば、知っただけでもそれは〈外部〉なわけだ。不当であると思えばそれはいずれは広がるであろう。
したがって、市民は恐れることなく参加し、正義に反する司法指揮があれば匿名でそれを漏洩しよう! めんどうであれば私にメールをくれればここに掲載する。


追記:”国民感情との乖離”が、裁判員制度を導入する理由に挙げられているらしい。
これについては下記の意見に納得。

 ところが、ここで言われている”国民感情”というものが、それほどシビアな立場で思考されたものだろうか。いや、彼らが”国民感情”といっているのは、行き当たりばったりで、合理性との葛藤を経由していない、垂れ流しの感情的発言のことである。裁判員は、必ず、合理性との葛藤を余儀なくされる。それを経れば、”国民感情”といわれてきたものは、変わってくる。だとするなら、そもそも司法制度が、第一次の感情に振り回されること自体、奇怪なことなのである。
http://d.hatena.ne.jp/e_and_r/20081130/p1