松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

天壌無窮/八紘一宇のナルシズム

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20150321#p1 の続き


「八紘一宇」といった問題を考えるためには、日本書紀の二つの断片が、文字どおり聖典として、近代日本においてことあるごとに顕彰・引用されてきたことを、思い出さなければならない。

1)「天壌無窮の神勅」
葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、是(これ)、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮まりなけむ。
日本書記第2巻神代下第九段 岩波文庫 日本書紀(一) p132

2)「八紘為宇」
上(かみ)は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳に答え、下(しも)は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養うの心を弘(ひろめ)め、然る後、六合(くにのうち)を兼ねて以て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)いて宇(いへ)と為さん事、亦(また)可(よ)からずや。
日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」 岩波文庫 日本書紀(一) p238


1)は、皇祖神とされる天照大神が孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に下したものだ。
後半の意味は「さあ、行きなさい。わが子孫(天皇)の繁栄は天地とともに限りない(永遠に続く)であろう。」(長谷川亮一 p56「皇国史観」という問題) 現在の国歌「君が代」とまあ同じ意味。永遠に続くであろう、といってもまあただのお世辞ですよはっはっは、といったニュアンスだったのかもしれないが、戦前にはそうした解釈は許されなかった。


 1989年、大日本帝国憲法発布と同時に作成された伊藤博文名義の憲法解説書『憲法義解』にも、「万世一系」の説明として、天壌無窮の神勅はでてくる。
1903年に始まる国定歴史教科書(小学生用)を見ると次のようになる。

天照大神はわが天皇陛下のご先祖にてまします。その御徳、きわめて、高く、あたかも、太陽の天上にありて、天地を照らすが如し。大神は、御孫瓊瓊杵に、この国をさづけたまひて、「皇位の盛なること、天地とともに、きはまりなかるべし。」と仰せたまひき。万世にうごくことなき、わが大日本帝国の基(もとい)は、実に、ここに、さだまれるなり。*1


2)の意味も長谷川訳で掲げる。
「上は天つ神(皇祖神である高皇産霊(たかみむすひ)尊と天照大神)が国をお授けになった御徳に答え、下は皇孫(火瓊瓊杵)が正しきを養われた御心を広めてゆこう。そののち、六合(天地と四方)を統合して都を開き、八紘(天下)を覆ってわが家とすることは、はなはだよいことではないか」(長谷川亮一 p96「皇国史観」という問題)修辞が大げさなだけで、単に橿原の地に都を築くという宣言にない。


「八紘一宇」という言葉を作ったのは、日蓮宗系の田中智学だ。「養正」を骨とし、「重暉」を肉とし、「積慶」を皮とした「日本国体」は、人間性情の上では忠孝として顕れる。そうした忠孝といった道徳によって「道義的世界統一」を成し遂げる、そのことのスローガンとして「八紘一宇」という言葉を掲げた。1922年に。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924913/351


「辺(ほとり)の土未だに清(しずま)らず、余(のこり)の妖(わざはひ)なおあれたりといえども、中洲之地(うちつくに)また風塵(さわぎ)なし」*2と書かれているように、日本書紀のこの部分では、後の日本の中央部だけに平和がやって来ていた段階だった。その言葉を一字だけ差し替え、自分の思想によって「道義的世界統一」といった意味を持たせたのは田中である。しかしその時はまだ、単に民間の一思想家の発言にすぎなかった。


1931年満州建国をした日本はそれが侵略(覇道)ではなく、王道楽土の建設という理想主義によるものだと宣伝した。後にそれを説明するべき修辞として「八紘一宇の皇道精神」というものを押し出していく。(例えば、1935年陸軍省「」満州事変勃発満四年 日満関係の再認識について」)
さらに「1937年7月の日中戦争の勃発に伴い、同年8月より国民動員のための官製国民運動として「国民精神総動員運動」(精動)が開始されると、政府はその中で「八紘一宇」を国策理念として喧伝するようになる。(同書 p100)」*3


日本書紀のテキスト断片、二つだけを読むと、同じようなことを言っている。1)は時間的永遠性、2)は空間的広がり。2)は確かに八紘(世界の果てまで)と言っているが、それが修辞でしかなかったことは、文脈上明らかであった。それを巨大な軍事国家のためのイデオロギーとして大きく取り上げたのは近代日本だった。


三つの時期に分けて、長谷川氏の文章を借りて、簡単にまとめてみよう。

明治維新から、1934年まで
「古代の天皇親政への「復古」を自己正当化のイデオロギーとして成立した近代天皇制国家は、天皇を、神話の時代より続く「万世一系」の超歴史的存在として位置づけた。そして、その裏付けとして、日本の「神話」「歴史」「伝統」などが、さまざまな形で再構成されて語られることになる。(長谷川 同書p54)」

B 「1935年から1937年ごろにかけ、日本国内において、「天壌無窮の神勅」に基づく「国体」が神聖不可侵の存在として位置づけられるようになるとともに、その中心たる「天皇」をいただく国家である日本は、「万邦無比」の「皇国」とされるようになる。この認識は、それだけでは「日本」の範囲内にとどまるものでしかなかった(後略)(長谷川 同書p114)」

C 「1937年以後の日中戦争の拡大とともに、その「国体」を「日本」の外部へと無限に拡大し、諸国家・諸民族の自立を認めつつ、その上に天皇が立つ、という「八紘一宇」の理念が国是として導入されることになる。これは、日本が帝国主義的な領土拡大を形の上で否定しながら、なおかつ対外侵略を正当化するために導入した理念であった。(長谷川 同書p114)」


3月16日の三原じゅん子参院議員発言から起こった、突然の「八紘一宇」ブーム!?


それに対して私が言いたいことは、以下のとおりだ。
「八紘一宇」は「八紘一宇」だけ単独で捉えるのではなく、「天壌無窮〜八紘一宇」という一体のものとして捉えるべきではなかろうか。前者が時間的な無限性、後者が空間的な無限性を表す神学的な色合いの強い言葉であると考えれば、一対の言葉として理解しうる。
天壌無窮も八紘一宇も、日本という範囲内で見る限り、それなりの壮大性、普遍性を持っている。天皇という空虚な中心がすべてを総括している(露骨に権力・暴力支配しているわけではない)という前提を、受け入れることができれば、だが。*4


「天壌無窮〜八紘一宇」の侵略性・犯罪性というものは、上記のA、Bの時期にはほとんど現れない。そして肝心の1937年以後においても、もともと「帝国主義的な領土拡大を形の上で否定しながら、なおかつ対外侵略を正当化するために導入した理念」という詭弁なので、論破には苦労することになる。
したがって「八紘一宇」がともなっている侵略の合理化という側面を攻撃するだけでは、不十分であろう。「天壌無窮〜八紘一宇」のもっている普遍性は、一歩離れてみるととほうもないナルシズムだ、ということを侮蔑的に指摘することの方が有効だと、私は思う。


敗戦とともに、当然「天壌無窮〜八紘一宇」の時代は終わった。八紘一宇は「大東亜戦争」などと同じく、GHQから禁止措置を受けた。国内でも批判はあったが、神がかり的とか侵略主義とかいったキーワードによってタブー化するといったものだった。マルクス主義的あるいは進歩派的立場からは、丁寧な思想的批判など、ちゃんちゃらおかしいと思われたのかもしれない。
「天壌無窮」についてはほとんど自然に暗黙のうちに忘れられ、フェイドアウトしていった(のではないか)。


一方で、戦後教科書問題は常に問題であり続け、70年間徐々に右傾化が進んだ。その流れはあったが、タブーが強すぎて教科書問題とかには取り上がられたことがなかったのが「八紘一宇」。2015年3月突然、「八紘一宇」の再登場となった。三原じゅん子の「八紘一宇」が一回限りのエピソードとして今後は沈潜するのか、それとも影響力を拡大していくのかはまだ分からない。しかしその「鵺的本質」を射抜いて批判していくことは大事なことであるはずだ。


(今回、長谷川亮一氏の 『「皇国史観」という問題』白澤社 一冊に全面的依拠して文章を書かせていただいいた。記して感謝します。 このテーマはテーマが大きいのに類書がほとんどないのではないか。3800円のマイナーな本だが、名著だと思う。)

「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策

「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策

はぐれ思想史学徒純情派氏による書評

http://n-shikata.hatenablog.com/entry/20110321/p1

最初は田中智学による造語にしか過ぎなかった概念が、「満洲国」の成立によって、日本の軍事的拡大を正当化する理念として掲げられるようになる。だが、膨張し続ける「近代日本」の領地的拡大は、「天壌無窮の神勅」に基づく「国体」にとって、最も欠けていたものを曝け出してしまう。すなわち、知識人層に向けた公定的テクストとしての「国史」が編纂されていないということだった。

この本のポイントはここ。

高等文官試験と国史概説

国家のエリートを選考するべき、高等文官試験において国史が導入されたのは、1942年のことだった。国体明徴宣言よりは大きく遅れてます。上記でいう「知識人層に向けた公定的テクストとしての「国史」の編纂」が遅れたのが原因ですね。42、43年は実施されたものの、学徒出陣の実施にともないそれで終わった。
長谷川氏はこの試験の裏話みたいなのを丹念に掘り返している。

  1. 国史の成績が猛烈に悪かったので何点か引き上げたことは某委員の直談である
  2. 筆記に通った人で口述試験神武天皇の御東征を全然説明出来なかった人が居たとは、これが某委員の直話である などなど*5

おそらく明治から現在まで続く官僚の教養は民法、刑法、憲法などを中心にした試験に養われたものとして一貫しており、非常時においてもあまり変化はなかったように感じられる。
教科書たるべき「国史概説」は、「上」が1943年度本試験にようやくぎりぎり間に合っただけである。

皇国神話と国家の実務エリートとの親和性は低いと考えられる。彼ら自身が信じるものというより、国民に押し付け支配をしやすくする為のものなのだろう。

肇国の精神、とは何か?

「いかなる時代にも厳然として存しました皇室の御稜威」、「国体に随順帰依することによって、よく皇運を扶翼し奉り以って時代に応じて飛躍的国運の進展に大いなる力を致した国民の活動」(p204)と、理解しておいてまあよいだろう。


では日本の歴史は、そうした「肇国の精神」の展開として理解しうるか?


中村孝也国史編修準備委員・東京帝大教授によると

宇多天皇以後摂関政治が行われ、下って武家政治が行われるようになった時代は、日本国家生活が肇国精神を具体的に顕現する力量の寧ろ乏しかった時であります、この時代に於て国家の総意を以ってするところの世界的対外的発展とか活動と云うものは見られなくなってしまって居るのであります、それは個人的にあるいは民族的に出て行くことはありましても、国家の意志をもってする行動と云うものは殆どなくなりまして、豊臣秀吉の明国征伐と云うようなことも、天皇の勅命を戴いて国家の総意を以って行われたものとは理解し兼ねるのであります、そこで摂関政治武家政治を主題と致しまする場合には、我が国の世界的使命がどのようなものであるかという云うことを説明するには甚だ不便だと考えるのであります *6

摂関政治武家政治の時代は天皇の意志による国家運営がなされなかった時代であり、「肇国の精神」の展開とみることはできない、と彼は率直に言い切ってしまっている。


結局のところ、皇国史観は、小学校の歴史、修身などで国民に深く教えこまれ、浸透した。しかしインテリ向けの歴史書を編むことには失敗した。理論としては、子供だましの水準を突破できなかった、と評価できる。

政治家としての三原じゅん子を侮ってはならない --- 島田 裕巳

http://agora-web.jp/archives/1637072.html
同感である。

*1:同書 p58

*2:岩波文庫 日本書紀(一) p238

*3:「八紘一宇」が田中智学が作った言葉であることは忘れられていたわけではないが、そのことはほとんど無視され、当然にも上記日本書紀の一節と結びつけて、国策標語化された。1942年以降、元の「八紘為宇」を代わりに使う例もある。参考 同書p112

*4:八紘一宇とかいっても小規模な部落だろうみたいな揶揄的意見に、田中は反論する。「「八紘一宇」は何から響いてきたかというと、上に宣言された「養正」からの響きである。正義公道は世界的宇宙的なものであって、決して部落的ものでない、それから来る響だから、ヤハリ世界的宇宙的な音がするはずじゃないか。」田中のこの文章は力強く魅力的だ。だいたい日本の学者は正義や普遍を論じながら、「日本には通用しないよ」と強く言われると魂をもって貫き通せない人がほとんどだろう。ただ、この普遍性も「日本国体の内容が純真純正の大道である」という公理からくるものなので、直ちには同意できない。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924913/352 

*5:p140

*6:p281 原文カナタナ書きをひらがなに変換した