松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「血盟団事件」

テロリストとはどのような人なのか、と疑問を持った人は『血盟団事件』という中島岳志の本を読むとよい。*1 1932年だから今から90年ほど前だが日本の十人ほどの青年が、死を賭して何かを成し遂げようとする決意をする。


井上日召の人生をたどる。最初にあったのは、ある疑問に取り付かれたこと「同じ地面に咲きながら、桔梗は紫で、女郎花は黄色い。何故だろうか。」素朴とも言える形而上学的問いだが、哲学も自然科学もそれに答えることはできない。この問いには自己とは何かという問いが二重になっておりおそらく解けないという性格をもったものだろう。それでもその問いは井上に覆いかぶさり井上を苦しめる。彼は煩悶し続け、キリスト教会に近づいたり、自殺未遂したり、中国へ行く船で働いたり、飲酒・放蕩したりする。中国(満洲)へ行き、革命運動に関わる、そこで曹洞宗の布教師とであう。帰国し小さな小屋に籠もり南無妙法蓮華経を唱える。


ある時、題目を唱えていると、
…突然、薄紫の天地を貫くような光明が、東の方からパッと通り過ぎた…
…あたりを見渡すと、目につくものが、なにもかも天地万物がことごとく一大歓喜している。しかも、そのまま私自身なのだ、という感じがする。宇宙大自然は私自身だ、という一如の感じがする。「天地は一体である」「万物は同根である」という感じがひしひしと身に迫る。−−かって覚えたこともない異様なセ神秘な心境である!…
…なにが善でなにが悪か、私は従来それらを対立する二つのものと考えていたが、実に本来「善悪不二(せんあくふに)なのである…*2


このような悟りの体験の後、日召は日蓮を学ぼうと、身延山や田中智学のところにも行く。井上の体験は宇宙との一体感である。「家庭も社会も、国家も全社会も同様一貫せる法律に規律せられて生活し発展すべきであって、人類の理想は宇宙の理想」だ。そのように井上は考える。さらに井上は日本主義的な天の声を聞く。「三種の神器。この三種の神器こそは本当に宇宙の心理、宇宙の本体であり。(略)日本の国体はかかる形の上に現れて居る、これが此の天照大神の大御心である、そうしてそれは大和民族の理想である。」*3


つまり、日召は神秘体験においてまず〈宇宙〉を獲得する。宇宙の真理が体得された、それは三種の神器といったものが示す啓示と同じだ。その解釈として〈世界とは日本国なり〉という田中智學の日本主義=日蓮主義が採用される。さらに彼の周囲には、農村社会の極限的な疲弊・貧困があった。これにより、一挙に日本を救わなければならないし、救うことができるとする強い信念を獲得していく。

「世の中はすべて平等だ。前の松林でも同じに植えられれば、どれもだいたい同じ大きさに育っている。現代の資本主義というものは、弱肉強食だが、これは自然の大法則からみれば間違っている」*4 と井上は言う。目の前の悲惨・貧困に起因する怒りと支配への反発、現在の「右翼」からはまったく失われたこの社会革命への意志! こうした〈革命への意志〉が「天壌無窮の日本国体」信仰から直接導き出されるというのは、現在の常識からはまったく考えられないことであり、ぜひ思い出して確認しておかなければならないことである。


日召は、信仰に基づく〈革命〉の為の同志を獲得しようとする。急速な資本主義化で矛盾が拡大していた日本では、まさに日召と同型の、強い葛藤を抱え、形而上学的な救いを求める農村青年が沢山いた。この本の第二章「煩悶青年と護国堂」はそのことを詳細にかつ読みやすく書いており、説得力がある。


小沼正の場合は、こうだ。
(A)・・・そして心から「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声の限りに唱えた。(略)
なにかすがすがしいものが胸のなかにみなぎりはじめた。「おれの行く道は、これできまった」と、私は思わずにはいられなかった。・・・ p145

(B)「日本の此の国体は宇宙の本来の面目である所の絶対平和其の儘(まま)が日本の国体であると思ふのであります」p158
「革命と云ふものは即ち宇宙本体の大活動、是が即ち私は革命だと思ふのであります。」p158
「個人の理想的の完成は欲望の排撃でなくて、欲望の統一である、国家の一点に個人の欲望と云ふものを集中統一していく。」p159

(C)「亡国階級が国家を私曲壟断をして、一君万民の国体を紊(みだ)して居りました。」*5
「革命とは何か? それは雛が外殻を破壊してピーッと生まれでることである。」*6
「人をやるのではなくして自分を破壊する、相手のみを殺して自分が生き残ると云ふ気持ちでない、自分自身を叩きつけて行く、さうして自分の体の上を他の人達を渡して行くのである」p191
そのようにして、彼はテロ(暗殺)にたどり着く。

(D)1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助を拳銃により暗殺。


私も、一ヶ月ほど、ほんとに命がけで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声の限りに唱え続ければ、それなりの悟りを得られるかもしれない。そうすれば私もテロリストになれるかもしれない。
もちろんそれは嘘だが、イスラムのテロリストは所詮他人ごとであるのと比べると、そうした可能性がゼロではないと思えてしまう。なにしろ「日本」と唱え続けるだけで、宇宙を獲得できるのだ、簡単じゃないかね?


日本という超越に対して没入していくという形而上学的可能性を日本人は持っており、それは大戦末期に、餓死寸前でろくな武器ももってないのに敵の陣地に突入するといった儀式においても十分発揮された。私はそのような〈絶対者日本に対する絶対的没入〉というものを、実在の日本陸軍(日本国家)に対する全面服従と捉え、強く批判的に捉えてきた。
しかし血盟団における、〈絶対者日本に対する絶対的没入〉の方が、時期的にもむしろ原型と考えうるのではないか?でもって、レトリック上、戦争国家日本に対する絶対服従の勧めと全く同じものが、結論としては、総理以下の重臣、財閥巨頭といった秩序の頂点に向けられていることに、私は改めて、びっくりした。


私たちの世代が知っているテロリストとしては、1974-75年の東アジア反日武装戦線がある。彼らが純粋だったのと同じく、血盟団の青年もまた純粋だった。純粋という言葉でテロを免罪するつもりはないが、逆に「テロ」を絶対悪として指弾する意志もそれほど私にはないのだった。*7


日本の政党政治が葬られ、軍が支配する国家によって戦争への道を走っていくその原因を作ったのが、515事件、226事件であり、血盟団事件も同じだといった粗雑な理解が現在でも支配的だろう。
一方で、なんだかわけの分からない愛国を掲げるネット右翼は、血盟団の感覚では暗殺リストの筆頭に掲げられるべき安倍晋三竹中平蔵といったひとには好意的なようだ。
血盟団が正しかったというつもりはない。しかし、挫折であったとしても、日本の為という一心でエスタブリッシュメントを殺害した彼らのことをどう考えるべきか?
〈絶対者日本に対する絶対的没入〉自体は全否定しなようにしよう、と私は思った。これは良識派には許せないものだろうが、そんなことはどうでもよい。


(ところで、村上一郎渡辺京二のようななんともカリスマ的な文体を中島岳志は持っていない。これはものすごく幸いなことだと、彼は自身で思っただろう、この本を書いた時に。なぜなら、この本の内容にカリスマ的な文体がプラスされればテロリストなど容易に生み出せるからだ。)

*1:

血盟団事件

血盟団事件

*2:p63 同書

*3:p76同書

*4:p149

*5:p238 菅波三郎の発言から引く

*6:p188井上日召の発言から

*7:戦後70年間の戦後民主主義の集大成として安倍首相がいるということは、戦後民主主義の敗北だとまず考えるべきではないか。