id:finalvent氏が批判されるべき点
(1)
「植民地にされた国」、その考えは、実は、侵略する/侵略されるの前提にその二項の実体として国家を措定していることになるのだけど、そうした国家は実は近代化のプロセスのなかで相互に生成されたものなのですよ。ちょっと極論すると、スペインの帝国侵略がなければフィリピンは存在しなかった。島が近いだけで諸島の国家はできないし、まして島を越えた王朝といった民族史もないし、これは陸続きのアジアでも同じで、領域性からは民族・国家は同定できない。そして、たとえば中国を例にするとこの近代国家を生み出したのは近代日本であり、少し勇み足になるけど、近代化のプロセスで日本が中国を生み出したのですよ(中国四千年とか、清国とかいうのはその後付けの民族的幻想史)。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166
「「植民地にされた国」、その考えは、実は、侵略する/侵略されるの前提にその二項の実体として国家を措定していることになるのだけど、」だろうか。ならない。「植民地」というのは独立前のいまだ国家もまとまりも持たない人々とエリアを言う。フィリピンでもどこでも、ナショナル・アイデンティティとは、独立の途上で一部の志士によって形成されそれが国家を獲得すること人々に教育などによってひろまったものだ。しかしそうしたいい方は問題がある。ナショナルアイデンティティというのはいわば公理系でありそれを上からメタに思考する権利を私はもっていないからだ。しかしながら。独立によって成立した例えばフィリピンというものが、それ以前から(潜在的に)存在し、主権が不当に奪われていたという理解は正しいとは言えない。*1
しかし、「そうした国家は実は近代化のプロセスのなかで相互に生成されたものなのですよ。」finalvent氏のこの発言は許容できるものだろうか。侵略する/侵略されるというふたつの側は圧倒的に不均衡な力を持つ。武力においても、自己を組織する力においても、第三者(国際社会)に自己をアピールする力においても。
植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実。(今回のガザのように、という比喩は間違っているとは思えない)と書いた所以である。
「たとえば中国を例にするとこの近代国家を生み出したのは近代日本である」という命題。上のように考えると、この命題は必ずしも間違っているとはいえない。しかし無意味に中国全土を8年以上荒し回ったあげく2000万人にも及ぶ人を殺害した「日本人」であるわたしがそう言う権利があるだろうか。わたいはなおも「ある」と言いたいわけだが、finalvent氏にないのは明白である、というのは、finalvent氏はイスラエルによるガザ空爆を非難せず、「人間の盾」どうのこうのという言説を書き付けている卑劣な奴だ。つまり植民地を作る側(帝国主義)が持つ圧倒的な「第三者(国際社会)に自己をアピールする力」に竿さして自己の言説を組織しようとしている。帝国主義とそれに寄生している自己を免罪したいという欲望が放置されたまま、文章の底に嬉々としてのたうっていることをわたしたちはじかに感じとることができる。
finalvent氏の文章が「嫌な」感じを与えるとはそういうことである。
ガザにおいて自らの意志において進んで人間の盾となったパレスチナ人をnoharaさんは「皇国に反逆した」人たちのように見るのだろうか。私は、戦争という狂気の同じく被害者であると思う。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418
ガザで殺された人はただ単にそこで生活していて、イスラエルの高度な武器が撒き散らした破片がぶつかって破壊され死んでいった人たちである。これを記述するのに「人間の盾」などというタームが入り込む余地は一切ない。それをするのは卑劣な奴だけだ。
ちなみに中国においても事情は同じ。
わたしが今回のガザ問題を引き合いに出したとき。それは、「水曜の夕方、ガザ北部のベイト・ラヒヤでイスラエルの戦車がある家を砲撃した。それにより父親と子ども3人を含んだ家族5人が亡くなっている。この一家の名前は報じられていない。*2」といったイメージによってである。「人間の盾」などというタームがある断片をイメージする人もいるのだろう。シオニストの情報戦略の犠牲者とわたしからは評価されるわけだが。
【11月22日】道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀想である。
p87 南京事件 isbn:400430530
ここに記述されたような婦人の死体*3を、隠蔽しようとする努力のうちに戦後の東アジア認識は形成された。
確かに侵略なんだけど、近代化という意味での日本を原点とする浸潤的な、滑らかな動きがあり、孫文だの新垣弓太郎などを生み出していく。
「日本を原点とする浸潤的な、滑らかな動き」とは何だろうか。近代を求める狂おしいまでの熱狂とそれを呼んでみるならば、日本は原点ではなくむしろ経過点だっただろうに、finalvent氏はなぜ「日本を原点とする」と語るのか。「日本人である=ナルシズム」におもねることが性になっている、からではなかろうか。
(2)
ここでは、率直に質問したいが。現場でインタビューもされたとのことなので。
「(アジアの近代化)それらが、ある空隙にあったとき、これらの虐殺が起きているのだが。」アジアの近代化を代表していた皇国の権力組織が崩壊したことにより大虐殺が起こった。それは不正確な文章だがまあ許容するとして。4.3や2.28をそう理解したとして、オキナワは?
いわゆる「沖縄集団自決」その日本人(沖縄人)は日本の(皇軍の)過剰において虐殺されている、としか記述しえない。というわたしの断定に対し、「皇軍(ところで「皇軍」は基本的に戦後の言葉)の過剰は、その内面に及ぶ。内在にあっては、自らが正しいと思うものによって人は呪縛されていく。正義はそのように人を呪縛して殺していく。」というresがあった。具体的に住民に手榴弾を配った皇軍が住民を殺したのか、それとも住民が自発的に死を選んだのか?という問において、(常識的な前者の回答を忌避することにより)後者を示唆しようとする回答だと受け取ったのだが、違うのか?
いくばくかの感謝を
わたしがはてなを始めたのは2003.11月だがその直後にもfinalventさんにコメントし応答いただいたことがある。先日も「いやさか」問題で貴重な示唆をいただき引用させてもらった。あわせて感謝しておきます。
興味深い点
このあたりの歴史は、ちょっと勇み足的にいうと、1945年に日本が戦前の日本から切り離されたことで、日本史の外部の事件とされている。
実際には、日本国の関与という意味での関わりは主体がない時代なので原理的に問えないとしても、日本の民衆史には大きな意味を持つのだけど、そういう視点で統合された視点というはみかけたことはない。が、戦後の民衆の歴史感覚にはきちんとあったけど。さすがに忘れられていく時代になった。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166
さてその前に、第2の論点(finalventが最も主張したいであろうところの)について。「日本の民衆史には大きな意味を持つ」という断言がこの文章だけからはセンチメンタルな意味しか読み取れないとしても、貴重な指摘であることは疑い得ない。47.2.28と48.4.03。併置することすら容易でない余りにも巨大な不条理あるいは虐殺に対して、「戦後の民衆の歴史感覚にはきちんとあった」とfinalvent氏は書く。ふむ。「きちんと」ね。きちんととはどういうことだろう。当事者たちが数十年間口にすることもできずに沈黙していたその巨大な残虐。被害を被害と呼ぶこと自体が殺害者に連なる当時の政治権力において絶対的タブーとされていたため沈黙せざるをえなかった。沈黙の理由がそれだけであったのなら、外部の状況が変われば沈黙を破ることができたはずだがそうではなかった。アウシュヴィッツのような巨大な惨事は、生き残った者に容易ならぬ罪責感を与える、自身生き残っただけで何の加害責任もないにもかかわらず重い罪責感から逃れることができない。遠くからfinalvent氏が「戦後の民衆の歴史感覚にはきちんとあった」と書くとき、問題把握の軽さは隠すべくもない。だとしても、その事件に対して当事者でなかったがゆえに友人としてフランクにかかわり得た戦後の(日本人)民衆は必ずしも少なくなかったはずだし、そうした人たちの経験を再評価し学んでいくことは良いことだ。自身のナルシズムで問題を歪める種にしないならば。
戦後の言説空間の歪み
というテーマのまわりを回っているのだが、どうも話をすっきりまとめることができない。
戦後パラダイムというのは戦前のそれの否定ないし反省として作られてたものだが、日本のそれはどうもすっきりしない。
α ヒットラーを否定したドイツに対し、ヒロヒトを否定しなかった日本
支配階級の一部に戦争責任を押しつけ処理し、結局押し付けられたはずの東條ほかも現在ほとんど復権し、大東亜戦争=悪という公理自体が崩壊した。安部が首相になり教育基本法が「改正」されたというのはそういうことだが、安部は靖国参拝できず止めてしまったので、北朝鮮ミサイルといったカンフル剤なしにはもたないのではみたいな不安定な状態。
戦後60年間持続してきたのは、韓国、中国などに対する*4に対する無視ないし差別である。韓流ブームもあり大衆同士の交流は飛躍的に増えたので将来好転する可能性はあるのかもしれない。しかしここでは、「米国に負けたが中国に負けてない」意識の持続という側面を考えたい。
三日三晩、夜空を焦がして文書を燃やした
戦後の言説空間の歪みといった場合、まずドイツのナチズム否定=憲法愛国主義との対比で考えることができる。連合軍が日本本土に進駐するのは8月28日以降であり8.15降伏の意志表示との間にほぼ2週間の空白期がある。この間に帝国官僚が何に熱中したかというと(皇国の財産を盗むこともあったが)自分たちの犯罪の資料を焼却することであった。ド*不連続の周辺への押しつけ
大日本帝国の問題は、むしろそれが何をしたかよりも、解体された後に、旧国民を日本国がどう突き放したか、ということにこそ問題があるような気がしますけどね。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166#c1240024408
8.15という切断によって、大日本帝国は(小)日本になった。これを受け入れる最も安易な方法は、大日本というのは偶発的な不幸な逸脱で、日本は太古の昔から(小)日本だったというのものである。これによって、「戦争が悪でありわたしが悪いんじゃない」とする(いまもfinalvent氏が使用しているレトリック)をともないつつ、余りにも巨大な戦争と戦争犯罪を自己から切り離すことに成功した。
自己から切り離すことすべてを拒否すべきではない。なんらかの切断は必要であった。ただその不連続を「周辺」に押しつけ、天皇と日本という名だけはしっかり生き延びるという戦略が成功し、日本の大衆も天皇と日本という名(と「平和憲法」)に包括される限りで生き延び得ることになった。4.3と2.28をオキナワの惨劇といっしょくたに語りたければ、「不連続の周辺への押しつけ」というレトリックはどうだろう。
イツ侵攻の場合は侵攻にともなって有力な証拠書類を直接押さえることができた。これが両国の差異の大きな原因になったとも言える。
参考 http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/26?mode=tree
「北の脅威」のおかげで生まれた戦後日本
以下にある南京関連本の一部を長く、引用する。当初日本の民主化を目指した米国が冷戦の激化のなかで、あくまで反共の枠内で日本の再軍備を提案してくるといった歴史は周知である。下記はそれに対するヒロヒトさんの積極的関与を示したもの。的確に短めに引用したかったがうまくいかなかった。
で何が言いたいのか。ここが起源であるのは間違いないとしても、戦後60年、いまだにいわゆる右翼も「現実派」も対米従属賛美一色というのはどうなんだろう。理屈ではなくここに踏みとどまってなんとか考え続けないといけないのではないか。と思う。
さて、finalvent氏は
Itisango 日本, 国際, 歴史, 韓国, 中国, 台湾 「敗戦の45年から6年間日本ってなかったんですよ」敗戦時に独立権を失っていることは日本政府そのものが存在しない事を意味しないと思うな。占領軍の意向に従って統治は続けたのだから。 2009/04/18
そういう幻想をみなさん持っているのですよ。そして、今でも日本が独立国であると思っていらっしゃる。
と書いている。戦後日本60年の歴史は、主権という概念すら理解しないインテリを生み出した。「天皇=米国」というパラダイムの強力はそれほど脳を歪ませる。(id:Itisangoさんをことさらに批判する意志はありません、すいません)
で現在の日本の従属性を認識しているfinalvent氏が、なぜ頼まれもしないのにイスラエル擁護に回るのかわたしには理解しがたいが。
東京裁判を推進したアメリカは、当初は、東京裁判を軍国主義に冒された日本国民の「再教育」の場と位置づ
けて、NHK番組「真相はこうだ」(一九四五年一二月九日から四六年二月一〇日まで一〇回シリーズで放送)「真相箱」
などを作成して、「日本人再教育プラン」に着手したが、裁判開始後急速に進行した東アジアの冷戦の中で、日
本に対する占領政策を、初期の非軍事化、民主化という目的からはなれて、しだいに日本の再軍備と反共国家化
をめざすものに転換していったため、戦争責任の究明ということ自体に熱意を失ってしまった。それだけでなく、日本国民の「再扱育」が成果をあげで、民主化が「過度」に進展し、戦争責任追及が昭和天皇にも及び、当時の
社会主義勢力が主張していた人民民主主義国家の建設を求める政治運動が活発になることに対して危惧を招くようになつていたことも事実である。敗戦前後の昭和天皇とアメリカ軍、政府との関係は、アメリカ側の資料を利用した新たな研究書で、相当明ら
かにされてきているが、最近新聞で一部が公表された昭和天皇と連合国軍最高司令官マッカーサーとの会見記録
によって、日本国民の「再教育」の進展に危倶を抱くようになつてきたアメリカと昭和天皇との問に政治的「談
合」が成立していたことが判明する。そのことが東京裁判の終盤において、アメリカが日本国民の南京虐殺の記
憶化には関心をもたなくなつたこととも関連しているように思える。東京裁判ではアメリカの強い介入で天皇の戦争責任は免責されていたが、ソ連の束アジアに対する政治的影響
力が拡大し、朝鮮民主主義人民共和国成立(一九四八年九月)、中華人民共和国成立(一九四九年一〇月)への動き
が加速されるなかで、アメリカも昭和天皇も日本国内の労働組合運動の発展、拡大に脅威を感ずるようになり、
日本国内で天皇を含む戦争指導者の戦争責任追及運動に最も熱心であった共産党勢力の影響力の拡大にも脅威を
覚えるようになつた。
昭和天皇が最も恐れたのは、中国と朝鮮北部で社会主義革命政権が樹立され、その影響力
が日本にもおよんで天皇制打倒を掲げる日本国内の革命運動が激化することであった。
そのためにマッカーサー
との会見で昭和天皇は「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が、そのイニシ
アチブを執ることを要する」とアメリカ軍の長期駐留を期待することを表明したのである。東京裁判の終盤には、アメリカ政府と昭和天皇との間に政治的「談合」が成立していたことは、東京裁判の結
審直後に昭和天皇が同裁判首席検察官のジョセフ・B・キーナンを通じてトルーマン大統領へメッセージを渡し
たことからも推測できる。
一九四八年一二月四日付『朝日新聞』に「天皇・米の寛大に感謝/キーナン検事を通
じてトルーマン大統領へ伝言」という見出しで次のようなメッセージが掲載された。軍の寛大な態度と他国に対する思いやりのある取扱いを感謝している。
国のような民主主義を日本国民の中に育成するために最善をつくしたい。
右のメッセージは、東京裁判の審理進行中に日本国憲法が天皇の名で公布され(一九四六年二月三日)、象徴
天皇制という「立憲君主制」を日本国民も歓迎している実績をふまえて、アメリカ軍の長期駐留の下に天皇主導
による「民主主義」を育成することの方が、日米両国にとって利益になるとアピールしたものである。東京裁判の開始時期に試みられた日本国民の「再教育」のプランも、民主化の進展による国民の共産主義化を
ともに恐れるアメリカと昭和天皇との間に政治的「談合」が成立して以後は、すでに色あせたものになつていた。天皇の軍隊としての構造的特質から発生した南京虐殺の記憶が日本国民の常識として定着することは大元帥であ
った天皇にとっては忌避したいことであり、当時すでに日本の再軍備を計画していたアメリカにとっては、旧日
本軍の幹部と組織と技術を継承して利用する必要があったから、日本国民の間に南京虐殺の記憶が定着し、旧日
本軍の戟争犯罪を批判、追及する意識が浸透することは回避する必要があった。
こうしたアメリカと昭和天皇の
政治的「談合」の背景があって、東京裁判を日本国民の「再教育の場」と位置づけ、南京虐殺の記憶を日本国民
に定着させようとしたCIEの初期のプランはうやむやにされたといえよう。
本章で見てきてように、南京暴虐事件の責任者として松井石根を死刑にしたにもかかわらず、国民には被害者
側の証言記録を公開して提示することもせず、南京事件の実態を広く日本国民に記憶させる努力もせず、国民か
ら見れば、真相が不明のまま、松井石根の死刑に納得のいかないまま、「勝者の裁き」という強い印象をもたせ
て東京裁判が終わったことになる。ここで、東京裁判による日本国民の南京虐殺の記憶化のプランが頓挫したというのは、ニュルンベルク裁判に
よりドイツ国民がアウシュヴィッツをはじめとする収容所におけるユダヤ人虐殺の記憶を具体的イメージをもっ
て共有するようになったことと比較してのことである。つまり、日本国民が南京事件の歴史実態に基づいた南京
虐殺の記憶を共有するにいたらなかった、という意味である。それは、当時の日本の歴史学研究者が南京事件の
全体像を解明して国民に提示するという発想も関心もなかったことも原因している。国民が記憶すべき南京事件
の歴史像がGHQ、CIEからも、あるいは日本の歴史学者からも提供されなかったのである。
「南京虐殺の記憶と歴史学」 p51-54 笠原十九司・吉田裕編 isbn:4760128859