松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

天皇論のためのメモ

男は農耕にはげんで自分が食べるばかりでなく、人にも与えて飢えることがないようにし、
女は糸を紡ぐのを仕事として自分の着るものばかりではなく、人のためにもはげむということが、
いやしいことのようにも思われるが、やはり人倫の大本なのである。
p386


このようにさまざまな道をとり上げ、人民の困苦をなくし、お互いに争いごとのないようにするのが
国を治める根本である。
人民の租税を重くし、君主がきままなことをするのは乱世乱国のはじめである。
わが国は皇統が変わったことはないが、政治が乱れれば治世の年数が短くなり、
皇位が直系に伝わらない例は所々にのべてきた。
p396


わが国は神国であるから、天照大神の御はからいによって皇統が続いてきた。
もっともそのなかで、天皇が誤りを犯したために治世がながくない場合もあった。
また最後には正路にかえりはしたが一時は正統が沈倫してふるわないこともあった。
これはみな天皇自身の不徳のいたすところであって、神仏の加護がむなしかったからではない。
(略)
前世で十善を積み、その報いで今生で天子となったといっても、代々の天皇の業績・善悪はまたまちまちである。
だから本を本として正にかえり、元(はじめ)を元として邪を捨ててこそ、祖神の神意にもかなうものである。
p403


天下の万民はすべて神の子である。神は万民の生活を安らかにすることを本願とする。

したがって天皇の位がいかに尊いものであっても、天子一人が喜び、万民がこれに泣くということは、天も許さず神も祝福を与えはしない。(略)
いわんや天皇に仕える臣下としては、君をあがめ民をあわれみ、(略)
月日の光を仰いでもわが心の汚さゆえにその光に浴することができないのではないかと恐れ、
雨露の恵みを見ても自分の行ないが正しくないためにその恩恵に与ることができないのではないかと反省するようでなければならぬ。
朝夕に長田狭田の稲を食うのも皇恩のおかげである。昼夜に生井栄井(さくい)の水を飲めるのも神恩のかたじけなさである。
この心がけを忘れ、ただ私欲にかられて公のことをないがしろにするならば世にながらえることは決してできない。

北畠親房神皇正統記(日本の名著 現代語訳)からの引用です。


「朝夕に長田狭田の稲を食うのも皇恩のおかげである。」という文章を、狂信的な天皇中心主義と理解する人もいるかもしれない。しかしここでは「朝夕に長田狭田の稲を食うべることができるのも、神様(キリスト教の)のおかげである。」とあまり意味の違いはないと、理解したい。厳密にどう違うのかはたぶん難しい問題だろう。
しかしそれよりも大事なことは、戦前の狂信的な天皇中心主義(基本はドイツ国家主義)と北畠の思想はまったく違う、それは確かだということである。