松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

誰がチベットに不幸をもたらしたのか?

http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/a39b37f789b69f015019ee9fed0a4466
McCreary氏(マクレアリ でいいのかな)の、「過度の仏教信仰やダライ・ラマ崇拝はけっきょくチベットに不幸をもたらしたと思う」という文章を読んでみる。
タイトルからして変な気はする。
チベットが不幸なのは、統治者である中国共産党の支配があまりに強権的だから、であろう。
ダライ・ラマ中国共産党によって、追い出され、インドに必死の思いで亡命者のコミュニティを作った。
ダライ・ラマがその権威を利用して、チベット人に蜂起せよとアジテートし結果大虐殺にあったとしたら、その責任は第一義的にあくまで虐殺者にあるとしても、ダライ・ラマの指導も良くなかったと言われるかもしれない。しかしその場合も、誰がどういう権利でダライ・ラマの指導の是非を論じる権利を持つかは問われる。普通に考えれば、ダライ・ラマと同じくらいチベット人総体の幸せを考え、ダライの方針に対抗し続けた人しかそうした権利はないと思われる。
まして、ダライ・ラマは独立やそのための闘争など求めてはいない。彼が求めているのはただ、高度な自治と対話である。それを拒否し続けているのは中国当局である。

このような中国人のやり口に負けた原因の一つは、私たちチベット人にあるということを反省しています。あまりにも仏教を信仰しすぎました。僧を大事にしましたが、その僧こそが中国から肩書きをもらい、寄進してもらい、どれだけ立派な寺を建てたかを競うようになってしまった。

ペマ・ギャルポという人がこう言っているらしい。確かに僧侶たちを尊敬し自らの政治的判断を彼らに預けていたとすれば、彼らが間違えば民族が間違うことになる。
長く日本に暮らし政界を含む多方面で活躍する彼が、多元的な日本社会と違って、僧院を中心としたシステムが経済、政治、教育他に君臨している一元的なチベット社会を、批判的に見るのは当然ありうべきことだろう。「あまりにも仏教を信仰しすぎた」そのような後進性に、中国当局はつけこみ、巧妙に、思うままの支配を実現していった。

残念ながら、過度の仏教信仰やダライ・ラマ崇拝は、けっきょくのところチベットの近代化を遅らせ、同時に国際政治にかかわる部分でチベットが的確な対応ができなかったことの大きな理由だったと思います。

McCreary氏はこのように言う。A「チベットの不幸」の原因は「近代化の遅れ」であり「チベットが的確な対応ができなかったこと」にあると判断しているわけである。
しかし、B「パレスチナの不幸」の原因は「近代化の遅れ」であり「パレスチナが的確な対応ができなかったこと」にある。 C「朝鮮の不幸」の原因は「近代化の遅れ」であり「朝鮮が的確な対応ができなかったこと」にある。
B、またはCと言い換えてみたらどうだろうか、McCreary氏はBもCも是認するのだろうか。
20世紀最大の価値である「民族の独立」は、「近代化に遅れを取り」植民地化された民族の権利を承認するものである。
「近代化の遅れ」というフレーズで、「民族の独立」に関わる問題を処理しきることなど、できるはずはない。

それはともかく仏教教育ってのは時代錯誤でしょう。ていうか、かりにチベットが高度な自治権を獲得したとしたら、そんな教育はできないでしょう。

まったく意味不明の文章である。仏教教育のどこが時代錯誤なのか?
信教の自由を認めている中国憲法自体がおかしいような言い草だ。反論する余地がないほどひどい文章だな。

チベットが仮に自治権を得るとしたら、中国側はその条件としてチベットの世俗化をかならず要求します。ダライ・ラマは完全な象徴となり、政治にかかわることを中国側は許さないでしょう。

チベット神権政治によって独裁的に統治することをダライ・ラマが求めているかのような言い草だが、もちろんそのような事実はない。


だいたいこの人はチベット人のことを何だと思っているのだろうか。チベット人のことをよく知らないなら、はっきりしたイメージがつかめないなら、黙っていればよい。安部首相の批判だけしていればよい。チベットについて知らないのに、石濱裕美子氏の文章にけちをつけること自体、ネトウヨ的自己中心性がないとできないことだと思うが。
「映画、旅、その他について語らせていただきます。タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。」という自己紹介からは、いかにも上品なインテリが想像されるのだが、どこで間違ったのか?