松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

チベットの実情

について、下記の中原さんの書かれた本は信頼できると思っている。
https://docs.google.com/file/d/0B6cmrkvyxC23QmhCRTZyeWRrNm8/edit
(まず、google drive に入らないと読めないのかな)
McCreary氏は善意の人なので、おそらくチベットの実情を知らないのだろう。

第3回の5年後2001年に開かれた「第4回チベット工作会議」において、この仏教弾圧の姿勢がさらに強化された。江沢民はこの会議の席上「宗教への管理を強化すべきだ。宗教を利用して分裂主義的犯罪行為を行う者を打ち倒すべきだ。そして、チベット仏教社会主義に適応するよう導くべきだ」と発言した。


 「金橋」ガイドラインの中には「社会主義社会に応じない宗教的教義や実践は変更されねばならない」と書かれている。これは北京が言うところの「空に二つの太陽が輝くことはできない。一つだけが必要であり、それは共産党という太陽なのだ」という主張を裏打ちするものである。(p25) 

信仰の自由をうたってはいても、社会主義国で宗教が多少制限されるのはやむをえないと、McCreary氏はお考えなのかもしれない。まあそれはよいとしよう。
多くの焼身自殺者たちが訴えているのは、当局によるチベット文化、チベット人の経済や生活に対する抑圧は「限度を超えた」ひどさのものだ、ということであろう。


いくら多くの焼身自殺者たちが訴えようとも、それを認めることができない人がいる。

例えば、自治区書記の陳奎元も「情勢の分析にあたっては実事求是の精神で望むべきだ」と発言した。


チベット人共産党員はあたかも共産党に忠誠を尽くしているかのように表向きは振る舞いながらも、実は家にダライの写真を祀っているやつがいるというのである。チベット人はもう共産主義に共鳴し、社会主義化されているとか、共産党を愛しているとか、感謝しているとか、ダライを必要としていないというのは嘘である。現実には共産党チベット人の心を掴んでおらず、共産党員も民衆も共産党に忠誠心など抱いていないのだ。これが現実だと見抜いたのである。


しかし、その後が問題である。法王や世界的常識から言えば、その原因は共産党の態度、政策の間違いにあると考え、チベット人に好かれるようなもっと融和的、調和的態度、政策を模索しようという結論に至るはずだ。だが、陳奎元はそうは考えなかったのだ。支持を得ていないのは我々がなめられているからだ、だからこれを従わせるためには脅迫的手段を使っても従うまで厳しく対処すべきなのだ、ダライを徹底的に否定するまで追いつめなければならないのだ、という方向に行ったのだ。


これは実は陳奎元に限らず、中国の統治姿勢の基本でもある。例えば、最近の焼身の頻発を受け中国当局はどのような対応策にでたかを見ても分かる。中国政府は焼身者たちの命をかけた訴えを知らない訳ではない。それが自分たちの強硬政策に対する抗議であるということも百も承知なのだ。この意味で彼らは現実をちゃんと認識しているのだ。


 しかし、その対応となると、まずは「焼身者たちはまともな者たちではない、犯罪者や気違いである」と言い、次に「全てはダライ一味の陰謀である」として自分たちの統治責任逃れを行い、最後には焼身を犯罪化し、家族や友人をダライ一味と通じて殺人を教唆したとし、罰するのである。
 焼身者たちの訴えに耳貸そうなどとは思ってもみないのだ。これではダライ・ラマ法王がいくら「現実に即した対応を」と訴えても意味がないというものだ。(p23)

表向き、支配者共産党当局の指示に従っていれば、ウチのなかでこっそり、ダライラマの写真を飾るくらいいいではないか、それが、普遍的に認められた「信仰の自由」というものである。McCreary氏も一般論としてはおそらくそれを認めるのであろう。ところが、ことチベット問題に関しては、何らかのレトリックを繰り出してそれを認めない。あるいは事実を認めない。
中国共産党を権威としてあがめているわけでもないのに、どうしてそういう態度を取るのだろうか。(応答を確かめていないのでちょっと言いすぎだが) とても不思議である。