松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『花と兵隊』における不等価交換

私たちが杭州に入城したころには殆んど住民の影を認めなかったが、何所からかもう支那人の物賣りが我々の兵営の門を訪れて来た。これは我々を十分に〓(おどろ)かせた。(略)物賣りは殆どんど野菜ばかりであった。竹龍に、野菜、大根、赤い丸い大根、蕪など今山盛りにして、奇妙な掛け聲に似た賣り聲を立てながら早朝からやって来る。私達が雪の上を歩いて行くと、それらの野菜賣りが我々の顔を見てにやにやと笑い、ぺこんと頭を下げ、右手を妙な風に耳の附近まで上げる。敬禮をしているつもりらしい。光るような雪の白さの土に籠の中の野菜の鮮かな青さと大根の強い赤さが目に痛いようである。兵隊たちがやがて野菜賣りを収り囲み商賣が始まる。ところが、この取引はなかなか困難を極める。第一に言葉が通じない。しかしながら機智に富んだ兵隊はさして不自由もなさそうに身振りや手真似でこれを克服する。第二は貨幣問題である。我々は支那貨を持たず、支那人は未だ我々の日本金に対しては不安であって、光輝ある我々の貨幣を受け取らない。かくて交易は必然的に原始の昔に返った。この取引は物々交換によって行われた。支那人は穀類に全く缺(欠)乏しているらしく、米や麦などを最も喜んだ。もっとも我々も決してさようなものが豊富にあるわけではない。しかし彼らは全く十数粒の米によって満足したのである。かくてこの原始的なる交易は円満に遅滞なく行われるのである。
『花と兵隊』(1938年から新聞連載、翌年刊行)中古品の出品:8¥400より

いくらその時の支那人が、穀類を貴重なものと思っていたとしても、幾らかの野菜に釣り合うのは少なくともお茶椀1、2杯分の米だろう。炊いてから数えてもご飯茶碗一杯3250粒ぐらいあった、とあるサイトにあった。*1 十数粒の米なら約200分の1である。支那人を馬鹿にするにもほどがある、と言えよう!
 *2


誤植でないとすると昭和37年の時点でも、編集者がこれにツッコミを入れ改竄しかなった事が逆に問い直される可能性もある。

*1:http://www.komenet.jp/_qa/chawanippai/chawan_ippai02.html

*2:それともこれは誤植だろうか。私が読んでいるのは講談社の日本現代文学全集87「丹羽文雄火野葦平集」昭和37.4.10印刷、という版だ。