松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

盧溝橋事件

今日は、盧溝橋事件70周年です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89
937年(昭和12年
* 7月7日 盧溝橋事件
* 7月11日 近衛文麿内閣、対中方針を発表し、天津に二個師団の増派を決定。

この日から、8年強の泥沼の“支那事変”が始まったわけです。

 中国の中学教科書は開戦を次のように記述しています。

▼1937年7月7日夜、日本軍は盧溝橋付近で軍事演習を行った。日本軍は兵士1人が失踪したことを口実に、宛平県注4)に入って捜査させるよう理不尽な要求をしたが、中国の守備隊はこれを拒否。戦争を徴発したい下心のある日本軍は、盧溝橋の中国守備軍を攻撃し、さらには宛平県をも攻撃する暴挙に出た。忍耐の限界を超えた中国守備軍は、奮起して抵抗し、全国的な抗日戦争がここから始まった。
http://blog.livedoor.jp/the_ants/archives/50936892.html
蟻の兵隊を観る会」blog:半澤@博士の歴史夜話(17)

 この日を強調しなければならない理由は、日本人はあの戦争が始まった日として12月8日真珠湾攻撃の日を主に記憶しており、7月7日はその1割も反復回想されないから、です。*1

 慰安婦問題と同じくここでもまず呼称の問題から躓きが用意されている。「日中戦争」と教科書などには書かれている。*2
日中戦争という呼称は、中国と日本という対等な国家同士の戦いという意味合いをもってしまう。しかし、実際は違うわけで中国の一部は満州国として傀儡国家化されていたし、残りの部分についても近代国家としての実質を持っているとはとうていいえない情況だった。国民党、共産党と言っても、蒋介石毛沢東と言ってもその意味合い(イメージ)が1945年以前は全く異なり、過小な、テロリスト、匪賊に類するものであったことを認識するのは困難である。
これを理解するためには、現在の合法的に成立したパレスチナハマス政権が欧米でどんな扱いを受けているかを理解するのが早道かもしれない。

 日中戦争という言葉には問題があるので、しばらく“支那事変”という言葉を使いたい。
これについての文章、二つ。

当初日本では、支那事変(しなじへん)(最も早期には北支事変)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。現在でも日本政府の正式な呼称は変らず、防衛庁防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では支那事変の呼称を使用している。しかし、マスコミでは日中戦争という呼び方が広く定着している。これは日米開戦(昭和16年12月)とともに、蒋介石政権は日本に宣戦布告し、日本側は「支那事変開時点始に遡って今回の戦争全体を大東亜戦争と称する」と定めたため、おおまかに「戦争」と認識されることが多いからである。さらにマスコミでは「支那」という言葉の使用を嫌って日中戦争と言い換える例が多い。 「事変」という呼称が選ばれたのは、「日本と中国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの四年間、日本と蒋介石軍の双方が望んだからである。双方が宣戦布告を避けたのは両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためである。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89

 その理由を藤原彰氏はこう説明しています。

▼戦争とよばず、事変と名づけたのには、二つの意味があった。一つは戦争だと宣言すると、国際法上の交戦国となり、アメリカなど中立国からの兵器・軍需品の輸入にさしつかえるということ、もう一つの、より本質的な理由は、国民に、戦争として明示するにたる十分な名目がなかったからである。これほど大規模な戦争に国民を動員しておきながら、国民に訴える大義名分を明らかにすることができなかった。37年8月15日の政府声明では、「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」というのが戦争の目的であった。
http://blog.livedoor.jp/the_ants/archives/50933562.html
蟻の兵隊を観る会」blog:半澤@博士の歴史夜話(16)

で、大義名分ですがこれがなんと「暴支膺懲」!
北京の中心部のすぐ近くで、支那軍を挑発しておいて「暴支膺懲」とはよく言ったものである。

*1:1937.7.7に始まったのではなく、1931.9.18柳条湖事件からの15年戦争と考えるべきだという意見が左翼良識派の間にはむしろ強いだろう。7.7か9.18かという論争はとりあえずパスする。

*2:これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した(日中戦争)。