松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

杭州難民の惨状

 延齢大馬路というのは市中随一の大道らしく、けばけばしい色彩に塗られた高層建築物が立ち並び、戦前には最も繁華を極めていたであろうと思われたが、今は各家とも堅く戸を閉ざし、全く誰もいる様子が無かった。晝(ひる)問は物賣りの支那人や、残飯を貰いに集まって来る汚ない貧民達の姿が見られたが、タ方以後は、それこそ猫の子一匹通らず死の町とはかくのごときを云うのであろうと思われた。(略)
朝になると、妙な掛声をかけてやって来る物賣りと共に、私達は夥しい難民の群に襲撃された。私はその哀れな難民達を正視するに堪えなかった。破れた襤褸(らんる)をまとい、ばさばさの赤茶けた髪をした老婆達、つぎはぎだらけの着物の子供達、娘、殆んどけ女ばかりであったが、中には痩せこけた乾干大根のような老人もあった、彼等は一様に跣足(はだし)であって、一様に手籠を下げていた。彼等が何日も何も食べていないであろうことは一見して直に解る。私は狭い露地内や、道路傍で、堆み上げられた塵芥(じんかい)を手で漁り、何とも知れぬものを探し出しては食べている彼等を毎日のごとく見た。私はそのごみだめを見ただけで胸の悪くなる思いであつたが、彼等はそのような塵芥で生命を繋いでいたのである。街上で僅かな食料品(それは我我には何なのか全く納得行かないものであるが)を争ってて聲高に叫び立てている襤褸の老婆を何度も見かけたことがある。
私達はこのような貧民達に襲われると極めて困惑する。我々とて決して糧食が豊富にある訳ではないからである。しかしながら私達は、栄養不良のためひょろひょろになった子供達や、一人の子供の手を引き一人の子供を負ったか女などを見ると、有りもしない食料品を分け與(あた)えすには居れなくなる。*1 


 しかしながら、私はこれらの見るも無慙(むざん)な難民達を巷で見かけて奇異の感に衝たれたことが一つある。それはこの襤褸に杖を曳いて蹌踉(そうろう)と歩いていく貧民が、煙草を燻(くゆ)らしていることである。二本の指で軽く挾み、すぱりすぱりと一寸小粋な手つきで煙を輪に吹いたりしているのである。それを見ると、何か馬鹿にされたような気がしたが、それは何も奇異でも何でも無かつたのであろう。私は間もなく支那人が驚くべき煙草愛好家であることを知った。それは男は勿詣、女も子供も實によく煙草を喫うのである。(略)
『花と兵隊』

詳細にして生き生きした難民の描写は、その感受性故に目を背けたくなりながらなおそれを乗り越えて描写しようとする対象(支那人)への愛が存在したのだろう。すぐれた文章だと思える。

*1:以下約15行略。キャラメルや熱量食の菓子、あるいは乾麺麭(乾パンのこと)を紐の先に付けて老婆に与えようとするシーンがあるが、気恥ずかしいので略。