松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

火野葦平における、愛の甘さ

池田浩士氏の指摘を記載し確認しておきたい。

 火野葦平が「ちぎられた縄」を書いた動機や意図の真摯さを疑う余地など、いささかもない。にもかかわらず、いまの視線で見るとき、この小説(および戯曲)にもまた、火野の少なからぬ作品がはらんでいる根本的な問題か露呈しているように思えるのだ。それは、推かれている素材にたいする作者の共感が強く真摯であればあるほど、その素材が主人公としての人間であれ、また事件や事象であれ、作者はそれに深く没入するあまり、書き手としての自分自身と、ひいてはまたその自分のいわば分身である主人公に向ける視線が、極端に鋭さを失ってしまう、という問題にほかならない。『赤道祭』の第四郎にとっての沖縄と恩賜のように、こちらから沖縄を見る視線はあっても、沖縄がこちらに向ける視線、それにうながされて第四郎が自分自身を見つめなおす視線は、この「ちぎられた縄」にも決定的に欠けている。アメリカにたいする批判と怒りが作者の沖縄にたいする思いを高めるぶんだけ、戦中の、そして戦後の、日本の沖縄にたいする無惨な加害は、沖縄への一方的な愛と共感の蔭につつみかくされてしまうのだ。


 短篇「歌姫」が、男性である「私」にきわめて都合のいい設定に終始していること、それが作者の実体験にどの程度まで密着しているにせよそうであることは一読して明らかなとおりだろう。しかもそれは、サトという女性と沖縄とを主人公である「私」が愛していないからではない。むしろ逆に、深く愛しているからなのだ。
この関係は、基地の島、沖縄そのものにたいする表現者・火野草平の姿勢のなかに、もっとも顕著に現われてくる。沖縄にたいするかれの姿勢は、いわば非の打ちどころがない。かつて「支那事変」がそうであり、「太東亜戦争」がそうであったように、かれにとって沖縄は、真摯に向きあうべきテーマである。そうしてそれに向きあうとき、しかし火野草平から、自分白身をモデルとしながらその自分から距離をとり、自分自身を虚構化しようとするあの敗戦前の『幻燈部屋』の志向は、失われてしまうのだ。

 沖縄を扱った小説に対する文章だが、中国を対象にしたときも同じ病状が出ることは、上でも指摘されているとおり。
 中国への愛着が真摯であればあるほど、自己への問いかけが甘くなってしまう。