小島信夫の『アメリカン・スクール』という新潮文庫を30年以上前から持っていて読んでいなかった。そのうちの「燕京大学部隊」という短篇を昨日読んだ。
1944年、支那方面軍の兵士だった主人公が、米語が出来る人の募集で、米軍の無線傍受する部隊に行く。その部隊は、日本語があまりできない米国2世や癖の強い兵士が集まっていて、軍隊とは思えないような別世界。
万寿山のふもとには、支那家屋を改造した兵隊のホールや遊び場があり、裏手にバラックの長屋が並んでいた。長屋には戸毎に花子、とし子、松子、梅子、きよ子、といった日本名の女の名札が掲げてある。それがすべて支那人であった。
さりげなく書いてあるので、ただの民営あいまい宿だと思って読了したが、書き写して見ると、軍の慰安施設でほぼ間違いないようだ。
従軍慰安婦論争が華やかだった10年前、小島は(大衆的人気はなかったが)ポストモダン系インテリが持ち上げる文壇の最長老でしたね。
tmsigmundさんの村上批判は、幻の正義の原点から、文学者を裁断しているようにも見える。(誤解なのかもしれない。)小島については、
「村上にはそのイスラエルの度量から逃れる、かすかに開かれた自由の方向があるからです。それは、村上自身が積み上げてきた「免罪の文学」を、徹底的に自己批判することです。あるいは、そのような小説家であることをやめることです」と書かれたような批判は向けなくて良いのでしょうか?
論争の文脈では答える必要がないと思われるかもしれません。それとは離れても、中国にいた兵士の体験を21世紀にどう受け継いでいくかは大事な問題だと思うので、おひまな時にこの短篇を読んで、回答いただければ幸いです。
なおこの短篇は面白かったです。うまく見通せないですが、小島はやはり大作家なのかなという感じはします。
シオニスト左派の芸術的価値について
アモス・ギタイについて
映画がお好きなtmsigmundさんは、ギタイを見られてますか。彼の地味なドキュメンタリー「エルサレムの家」は、文字通り、ある家に「今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。」*1作品。
イスラエル人の無意識の欺瞞まで描き出した非常に鋭い作品だと感心しました。
でギタイもやはり「シオニスト左派にすぎない」と早尾さんはいうわけです。
ギタイも自己批判すべきなのでしょうか。
以上、tmsigmundさんを批判しているわけではなくただの質問ですので、お暇な時にご一考ください。