松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「大東亜戦争の大義」をめぐって(2)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20111211 の続き。

シモツカレ氏*1id:dj19さんさんの苛立ちがどこからきているのか? 少し分かった気がした。「大東亜会議」をググってみて。

 ボースはこの会議で中華民国(南京)汪兆銘行政院長に惹かれ、「この人こそ、真のアジアの革命家だ!」と述べます。そして大東亜会議が終わって南京に立ち寄り、ラジオ放送を通じて蒋介石重慶政府に英国側に立つその行動を「アジアの解放を叫ぶ、天の声に反する行動である」と非難しました。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110409/1302348580

といったトーンの「大東亜」に親和的なものが多い。

アジア主義の一部を取り出して、それを当時の大日本帝国が如何に抑圧、弾圧してきたかをを明かにすることにより、「甘やかな日本=大東亜主義者」を根底からバカにしようとする、というのが、私の戦略です。

現在、シモツカレ氏とdj19両氏とは対照的な靖国派 新陽 准さんとも対話継続中です。*2
わたしたちが1945年、つまり戦争の現実から遠ざかるにつれて、現実を踏まえない空想的「日本=大東亜主義者」が増えているのは困ったことです。


したがって、「比較的まともな大東亜主義」が実際にどのような推移を辿ったかを少し確認して見ましょう。

1931年11月、本部スタッフ23名をもって出発した自治指導部は軍閥一掃、県民自治による善政主義を掲げて各県に入り、県レベルでの建国工作に大きく寄与し、建国後の3月15日その任務を終えたとして廃止された。解散時の指導部員の総数は234名に達しており、その数をもってしても新政府内部での日系官吏の一大勢力として臨むことができるはずであった。
(p189 山室信一『キメラ 満洲国の肖像』)

自治指導部員のほとんどは硝煙けぶる地方に飛び込み、身を挺して建国運動を推進していた。彼らはおおむね満洲青年連盟系と大雄峰会系の二派からなっていた。新政府採用時に二派の確執が表面化し、満洲青年連盟系の人々は中央政府にほとんど採用されなかった。
それに対して笠木良明ひきいる大雄峰会系の人々は政府に新たに設置された資政局に地歩を占め大きな勢力を持つことになった。

しかし、資政局もまた誕生からほぼ四ヶ月で解散の憂き目をみ、大雄峰会系の人々は満洲青年連盟系の人々以上の憂憤と怨念を抱いて政府から逐われゆくことになる。(同p191)

このようにして「王道主義を基調とした理想主義者は失脚せしめられ、今では日陰者だ」*3という状況になった。


ところで、上に挙げた人たちの思想は、

帝国主義・権益主義による満洲国支配に対し、満蒙三千万民衆の幸福のために自治主義・連帯主義・理想主義に基づく楽土建設のための抵抗であったとみなすことは正当であろうか。おそらく否というべきであろう。*4

山室信一は言う。

32年8月、

石原(莞爾)は満州を去るにあたり、ただ一人残る板垣(征四郎)に後事を託して満鉄付属地行政権の返還、治外法権撤廃、軍の政治的干渉の排除、将来の主権者としての満洲国協和会の育成、満洲開発における日本人の特権廃止などの方針の徹底を依頼していた。(同書p204)

しかし実現したのは、それらの望みをすべて裏切る方向、露骨な植民地化、属国化であった。


ともあれ、満洲建国の大義は王道主義、あるいは多民族共存の道義国家建設にあった。日本人による帝国主義的支配の否定もその大義には含まれる。そこから考えると、「大東亜戦争大義は白人帝国主義者どもの世界支配の転覆」が出てくるのはごく当然であると言えましょう。


一方、満洲国は王道主義あるいは多民族共存の道義国家だった、という主張については、少なくとも32年8月以降はノーだと言いきれましょう。