松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

金時鐘による「規格化された贖罪意識」批判

金時鐘は、日本の知識人層のもつ「朝鮮コンプレックス」に言及する。

「贖罪意識が無形のかたちでみんなに充満していてね、朝鮮人はフリーパスだというのが日本の知識層にあるんだよ。朝鮮人が、話の節々に日本統治三六年をいうだけでことたりるようなね。連帯意識が、日本の知識層と朝鮮人の間にある。日本の知識層にとってやむをえないことかも知れないが、その贖罪意識が、規格化された贖罪意識なんだな。特定の個人がどうだというのではなくて、おしなべて日本が三六年間統治したという、侵略したし、植民地にしたという日本があって、自己がないわけよ。いつも総体的なもののなかで、総体的に贖罪するということはあってもね。総体物はどうあれ、僕自身はこうであるということが、日本知識層に少い。だから朝鮮人に対しては非常に寛大です。それと背中合わせに、知識層でない者は徹底した朝鮮人に対して対処しますね」というふうに、朝鮮人に対する日本の知識人層の態度と庶民のそれとの落差の大きさを指摘している。
(松原新一)*1

日本は三六年間朝鮮を植民地にした侵略の歴史がある。目の前に一人の朝鮮出身者が居るとして、その彼女または彼と私は存在論的に対等ではない。彼の親(または祖父の世代)が日本国家によってひどい抑圧を受けたとき私の祖先はそんなことを知りもしないでのほのんとしていただろう。そして今私は日本語で相手と話あるいは議論を始めているわけだが、日本語しか知らない私に対し、相手にとって日本語は母語ではない、あるいは在日にとってのように母語に近く流暢に操れるとしてもどこかその底に亀裂を宿したままだ。
このように相手と私の間には、二重の落差がある。
朝鮮人の側が常に感じ乗り越え思想化するといった課題の連続において落差を思考しつづけるのに対し、日本人は何も考えなくてもすむ。その矛盾が時に噴出し朝鮮人は日本人を糾弾する。
差別というものは以上のようなものだろう。


落差を解消しようと日本人の方がへりくだる場合がある。上で「規格化された贖罪意識」と言われるものだ。落差が最初に存在する以上、それを無視するのも良くないので、「規格化された贖罪意識」もコミュニケーションを出発させる上では良いかもしれない。
しかし「規格化された贖罪意識」が平板なものに堕する場合、他者の他者性自体がいけないものとされ、一方の朝鮮人の側の論理、感じ方があらかじめ正しいものとされ、コミュニケーションは出来レースになる。落差、差別、民族の問題をその深淵まで探求しようとする思想的努力は放棄される。朝鮮人であれ日本人であれこのような思想的放棄を、金時鐘が糾弾する。

「心ある思考をもった日本の知識人層の先進意識」ふうの金時鐘の言い廻しには、相当に辛辣な毒がこめられている。ありていにいい切ってしまえば、自己剔抉の痛苦を媒介にしないような、日本の良心的知識人たちの、朝鮮人にたいする「おしなべた原罪意識」など、自分は本気で信じているわけではない
、そういう扁平な関係をいったん意識的に断ち切るべきだ、というふうに、金時鐘は日本人の側に課題を投げ返しているのだ、といっていい。(松原新一) *2 

日本良心的知識人たちの「おしなべた原罪意識」を破壊していくことを通して新しい相互関係を生み出そうとすることを、私はやろうとしている。これを援用すればこう言える。 但し「援用」可能かどうかは問題だ。松原の文章は1987年発表だが進歩的知識人の時代は75年ごろ概ね終わっている。(「おしなべた原罪意識」=「規格化された贖罪意識」と考えて良い。)
ただ最近twitterでやり合った二人の若い日本良心的知識人たちは「おしなべた原罪意識」と同様のひどく薄っぺらな良心しか持っていないのに、他者を攻撃する悪癖があった。「おしなべた原罪意識」を破壊していくことを通して新しい相互関係を生み出そうとすることを、私はやろうとしている。と言っておいて良い。
以上5行は、twitterで9/20に野原が発言したもの。


twitterで、主にある一人の在日の方と話をして「朝高教科書は生徒の学ぶ権利を侵しているか? 」というマトメを作成した。
世に「朝高無償化排除反対運動」があり、それに関連した話題である。意地の悪い言い方をすれば、(被差別と名指されることが予定されている)「かわいそうな朝高生」に焦点を当て、日本が無償化排除という差別策動を行っているのでみんなでそれに反対しようという運動である。それに対して私は、、日本国家あるいは日本人との関係に焦点を当てた場合は、朝高生−朝高校長−朝鮮総連、といったものは一体の物であると考えられてしまうが、果たしてそれで良いのか?
朝高生を守るためという大義名分での運動と言うが果たして本当にそうなのか? 朝高生−朝高校長−朝鮮総連金正日独裁国家という支配関係に強く規定された現行の高校の体制、もっといえば結局金正日独裁国家を守るという目的に収束すると考えうるのではないか?とも考えられます。
そこで、朝高生の使っている「現代朝鮮歴史」というのに焦点を当て、「朝高教科書は生徒の学ぶ権利を侵しているか? 」という問いを立てて見たわけである。
総連傘下の子供の利益は総連中心の共同体、つまりは総連という組織が守ることになっている。しかし実際にそうなのか? 少なくとも大げさな支配者賛美に満ちた文章は生徒の学ぶ権利を侵している、と十分言いうる。*3
いや、引用するだけで情けない。当事者には申し訳ないが。18世紀の正宗と比べてもはるかに劣っていると感じられる。
朝鮮学校の生徒の利害は生徒自身ではなく関係者や総連によって、(総連の利害と当然にも一致するものとして)表現化され当局に訴えられる。しかし実際には生徒の利益を総連が抑圧している場合もある。例えば日本でも君が代を強制すればそれが嫌な生徒の利益を教育委員会は抑圧していることになる。日本ではそれが明らかになれば反対運動が起こる。
しかし、「朝鮮」という被差別集団内部の権力関係についてはそれに気づいても言わない、タブーが存在していることは確かだ。左翼知識人におけるタブーについては、金時鐘のいう「おしなべた原罪意識」で説明できるだろう。タブーは体制や国家の側にもある。その理由についてはまた今度考えよう。


「総連が生徒の学ぶ権利を侵しているか? 」という意見小さな問題にあえて焦点を当てるのは、もちろん動機がある。強制収容所や飢餓といった形で、北朝鮮の一般大衆に対し金正日独裁政権はひどい抑圧を持続している。*4
であるにも関わらず、国家は他国民を殺せばたちまち国際社会から強い糾弾を受けるが、自国民を殺しても内政干渉とか言って突っぱねれば国際社会は何もできないことになる。わたしたちの文明の水準がそこまでしか行っていないのだ。
そこにおける私たちの課題は、そのような国家というものが持つ国民を事実上殺しても許されるような至上権をどうやって解体していくのか、であることは自明だと思われます。
したがってこの、北朝鮮国民の利害を北朝鮮国家は代弁し得ない、という大きな問題を明らかにするために、北朝鮮系在日市民の利害を総連は代弁し得ない
場合もある、ということを明かにすることは、はなはだ大事なことであるわけです。どちらにも「おしなべた原罪意識」が関わってくることがあるので、余計にそうです。

金時鐘の自己否定

「規格化された贖罪意識」を批判する金時鐘は、ネット右翼のように自虐史観を否定する立場ではありません。まったく逆です。
最近のネット左翼ネット右翼を批判し、日本国民殆どがいわゆる天皇制的ナショナリズムに休らっていることを否定する人が多い。それは正しいのですが発想が平板になってしまっているきらいがあります。
金時鐘朝鮮人でありながら、戦時中皇国少年だった自分にたえず立ち返りそれを否定する作業を継続しています。日本人こそがやるべき事とも思われるのですが、彼はあくまで自己否定としてそれを行います。
これについて、さらに紹介していきたい。

*1:p9『金時鐘論』isbn:9784790412816

*2:p83『金時鐘論』isbn:9784790412816

*3:例:「敬愛する金正日将軍様におかれては、2002年の太陽節と2月の名節にさいして、祖国を訪問した総連の祝賀団・代表団のメンバーと親しくお会いくださり、情勢が困難で内外反動どもの策動がはなはだしいこうしたときであればあるほど、総連は一心団結の威力で現在の難局を打ち破っていかねばならないとお教えくださった。」p125「現代朝鮮歴史3」

*4:「総連第八次大会(一九六七年)で金日成を絶対の神として崇めるようになった」とS先生の記事にある。http://h-ayumi.at.webry.info/201009/article_4.html