松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「すでに生きているコミットメント」は認識できない?

上山和樹さんの次の宮台真司批判はとてもわかりやすく重要なものだと思われた。http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090501
(宮台言説というものはこの20年ほど論壇を支配してきたのかもしれにないけどわたしは一切知らずにきた。ここでは宮台批判としてではなく、一般的議論として行う。)
宮台は「恣意性」を強調する。

(1)「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。(略)
「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。
(2) これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、如何にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が実践的には逆方向を向いていることが大事な点です。(宮台)

例えば、今回の対finalvent氏でも彼の「半分日本人」というテーマを私がいったん受け取った上で議論が始まりました。「境界線の恣意性」というテーマがアクテュアルであることは確かです。そしてにもかかわらずコミットメントがなされなければならないということも重要です。今回もfinalvent氏のダルフール問題へのコミットメントには私は敬意を表しています。
それに対し、上山氏は「自分はすでにあるスタイルで生きてしまっている。」ことを無視するなと言う。

ネタである(あえてやっている)と主張されることは、それがネタであることを “わかっている” ようなメタ地点を温存しており、この地点はまったく分析されない。 いくら「あえて」やっていても、その「あえて」そのものが生きてしまう制度性(ベタな順応)があるのに*1、「あえて」などという自意識的なアリバイに居直ってどうするのか。 「あえて」のアリバイを共有して、ナルシスティックな共同体をつくるだけではないか。 宮台本の愛読者たちが、軒並み「わたしはメタ視点を維持している」という陶酔に浸るのは、ちっとも「ネタ」ではない。 ベタでしかない。

「それがネタであることを “わかっている” ようなメタ地点を温存しており、」そのようなメタ地点の温存こそ、私が強く忌避したいところのものだ。まあ学者というのは常にメタ地点に立っている。それも専門性、学派、ジャルゴンなどの二重三重の防壁に守られた。ただ学問というものが(とりあえず)そうでしかありえないのは所与の事実だ。問題はそこでメタ地点に立っている自己を本当の自己であると勘違いしてしまうことだ。人間存在は本来不定型なN次元にむかって開かれているがそのような形では生きられないので、(金とか欲望とかいった)つまらないものに縛られたふりをして(勘違いして)生きてしまっている。そうした自己を縛っている価値観から自由になるために恣意性が説かれた。それに対し、「ネタである(あえてやっている)と主張する」メタレベルに生きるとは一体なんだろう。ゲームをしようがぼーっとしていようがそれはそのひとの生きている時間であるのに対し、「(あえてやっている)と主張する」メタレベルなんてものは単に自意識による価値づけにすぎない。それで獲得できるものは自分は一段上の立場にいるとする優越感だけだ。つまらない。

その「あえて」という名のベタ、そこで固定された生産態勢(本気性のあり方)をこそ分析せねばならない。 思想的な本気さは、すでにスキャンダルとして生きられてしまっている。 その「しまっている」という過剰性をこそ素材化し、そこに強引な制度を発見せねば。

「あえて」という形容詞をくっつけようが外そうが、継続して何かをやる以上、固定された生産態勢(本気性のあり方)が生産されており、それをそれとして〈分析〉しなければならない、という指摘はとても重要だと思う。まあ本気じゃないとかいいながら、仕事を何年も続けたり異性とつきあったりすれば、本気がどちらにあるのかは言うまでもない。しかし一方でわたしたちは常に自意識(いいわけする言葉のシステム)という立場に立っており、それから離脱することは容易でないことも確かなのだ。

いずれも、「すでに生きているコミットメント」をなかったことにしている。

日本人とは何かを反転させて「在日とは何か」と問うならば、多様な差異の生成を生きざるをえないとはどういうことなのかを知ることができる。そのような作業なしに「わたし=日本人」という自明性に傷を付けたくないというナルシズムのままに論じはじめても、虚しいだけだ。