松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

一番大事な人権侵害は常に隠されている

Cristoforouさんが作った http://togetter.com/li/26418 についての感想を http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100604#p1で、書いた。
重要性と緊急性(http://d.hatena.ne.jp/saebou/20100603/ )で応答があったので、そのお返事。

ある人権侵害が他の人権侵害よりも重大だなどということはあり得ない

そんなことはない、と思います。
わたしたちは国際社会や国内社会を、ニュートラルに認識することはできません。あらかじめ特定のものに大きな比重を置く非常に歪んだ空間構成が存在し、その中で特定の事件はニュースとして大きく報じられ、他の物事は取り上げられることもないままになります。マスコミで取り上げられないこともinternetやNPOなどの地道な努力で日々伝えられてはいます。しかしその中にも比較的大きなニュースとそうでないものがあることは否定できません。
そのような「注目」の圧倒的不平等に対抗して、少しでもその不平等をなんとかしようと、「ある人権侵害が他の人権侵害よりも重大だなどということはあり得ない」というスローガンが叫ばれるのであって、人権の不平等という現実をくつがえしえてる訳ではないのです。
 
さて、パレスチナの人権問題に接近するためには、
「認識空間の歪み」を考慮する必要があります。
パレスチナ人の人権はイスラエル人の人権よりずっと軽いのです。例えばイスラエル人が2人死んだならば、パレスチナ人が200人死んだよりも大きくマスコミによって報道されます。

パレスチナの人権問題は重要というよりは緊急である、というのはsaebouさんの図式を離れて日本語として理解するならば、まったくの間違いです。

1948年ですから、起点は。
http://twitter.com/nofrills/status/15351986445

62年前ですね。ヨルダン川西岸とガザの占領に限っても1967年の第三次中東戦争からだから43年になる。
でも問題は、単に長さの問題ではないということです。
国連はUNつまり連合軍です。そのような体制の根底は、ナチスを実体として悪と措定しそれを普遍的に守っていく、ということです。「ナチスに類似の悪」というものがいつの時代にも発見されそれと戦うべきであるという命令によってこの体制は持続します。
ガザ攻撃に続く今回の平和運動家襲撃によって、「イスラエル国家は悪」という命題が60%くらい成立しつつあります。
問題は「正義の基準」の所在です。象限でいうなら、原点がどこにあるか、です。

とりあえず大量のリソースを一気につぎこんで急速に対策をとる必要がある。

ガザの封鎖解除問題は数年間続いていますが、今回は解除に向けて世界の市民が最大の関心を向けています。なんとか成果をあげたいものです。

 しかしながら重要性については、パレスチナの人の人権と性的少数者の人権について、「客観的に見て」どちらが重大かとか議論するのはほとんど意味がないことであるように思える。

そうですね。議論をして、比較に意味がないという結論を得るプロセスは意味があると思います。
というのは一番大事な人権侵害は常に隠されている、からです。
脱北して中国に潜んでいる脱北者は女性だけでも10万人近く存在しているようです。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100604#p3 に触れたように彼女たちはほとんどが人身売買状態で生存を続けています。10年近く続いていることのようですが、私が知っている限り、この問題に取り組んでいる日本人フェミニストはいません。
自己の認識空間の歪みに自覚的である必要があるでしょう。

なぜなら重要性と緊急性は全く別の問題で、重要性はコミットする人の主観によって決まるが、緊急性はだいたい外的要因で決まって大きく変動するからである。

ふむ、わたしの感覚では、コミットする人の主観によって決まるものは重要性とかいわないけど・・・
ただ、自己の「欲望」を外的要因と対等に交差させ、論じきろうとするのは、興味深いですね。


話を混乱させることになるが、私は松下昇というある表現者に強い影響を受けている。

 いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

彼の言葉に上のようなものがある。
重要性(対自己性)/緊急性(外的要因) という図にむりやり当てはめると、
重要性(対自己性)というベクトルにおいて、非重要(どうでもいいと思っている)のうちに、実はそう思いたいだけで自己の存在を危うくするから必死に隠蔽しなければならないことがらがある、と。社会活動するとしても、そうした隠蔽してしまうひそやかなダイナミズムと結合することではじめて、大きな力を持つ。謎めいていますがそのようなことを言っています。
隠蔽というテーマはおそらくクィアスタディーズに大きく関わるわけで、わたしがヘテロでありながらクィアスタディーズとかにもトンチンカンな興味を持続してきたのは、このようなことも影響しているでしょう。

私がイスラエルパレスチナ問題は大変「複雑」だと思うのは、イスラエルがどうとかいうことじゃなく(人権侵害をしているイスラエル政府がどう見ても悪い)、はた目から見て支援者が「小異を捨てて大同をとる」方針で、「小異」の根源となる第二象限のものが極めて多様だと思うからである(露骨な反ユダヤ主義者もいればオーソドックスのユダヤ教徒がいたり、一方で非常に世俗的な考え方の人もいる)。しかしながら実際、コミットメントの根っこはこの第二象限にある「小異」だったりするのがややこしい。

 コミットメントの根っこという問題は非常に大事ですね。
自己にとって重要なことも必ずしも不変ではなく、というより、自己という構え自体が変容することが常にあるはずだと思います。でそのためにも、自己にとって重要なことをとことん追求していくことは大事だと思います。