松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

セクマイ差別は極限状況では主題化されないか?

togetterに対する上の感想「@noharra: http://bit.ly/csfBuw に感想をかいてみました。」に対して、@tummygrrlさんから応答いただいた。
本来twitter上でこちらも応答すべきかもしれませんが、長くなったのでこちらでお返事します。

「衣食足りて礼節を知る」?何それ。「セクマイ差別は「衣食が足りている場合」にだけ主題化される」?何それ何それ何それ。(tummygirl)
http://twitter.com/tummygrrl/status/15381641412

はああ、すいません。
北朝鮮では飢餓で百万人単位の人が死んだと言われています。ガザや西岸では、餓死こそないとしても、病人が医者にかかれないで死んだり、家屋破壊ですべての自由を奪われることの反復が50年以上続いています。
「衣食足りて」というフレーズを引用したのは、「何らかの最低生活水準というものがクリアーされた場合に始めて」、何か文化的な差異(かっとう)というテーマが主題化されうるだろう(のではないか)、と言いたかったからです。
そして、上記でD1と書いた主張は仮説にすぎず、わたしはそれを強く主張したいと思っているわけではないのです。
 
で、「何らかの最低生活水準というものがクリアーされた場合に始めて」という時の最低水準というのは、極端に低い、餓死すれすれとか収容所内とかの水準を想定しています。
 

 オモニは中国人の密輸屋から中国の金で千元(約14000円)もらって私を中国に出すことにしました。(略)私も食べ物すらない北朝鮮から早く逃げ出したかったので、怖かったけれど中国に売られていくことにそんなに戸惑いはありませんでした。家族が延命するために売りに出せるものといったら、我が家には二〇代の若い女の私しかいなかったんですから。(p86「北朝鮮からの脱出者たち」石丸次郎)

 飢餓が深刻だった1998年のことである。
「食い物がない。闇市場で売るべきものもない。ああ万策尽きたと思った晩の食卓に、思いがけない食事が出てくることが何度かあったんです。でも、「どうしたんだ?」とは女房には訊けません。「コッ(花)」を売ってきたんだろうなと思うんだけど、悪くて訊けない。そうでしょ、僕ら男が何も持って帰ってこられないから、身体を張っているわけです。北朝鮮の主婦のざっと半分は「コッ」を売ったことがあると思いますよ」
(コッ(花)は売春の隠語)(p76「北朝鮮からの脱出者たち」石丸次郎)

 「欲望ー主体」という枠組みが成立してその後に、セクマイというテーマが成立するものであるなら、ここではすでに「欲望ー主体」という枠組みは崩壊していると考えられるのではないか。*1
 

あのね衣食が足りてないのはセクマイも一緒なの。あるいは女性も、あるいは少数民族も一緒なの。問題はね、集団全体の生存が脅かされる時に特定の人達にはその危険がより多く配分されがちで、だから全体に対する脅威と特定の人々への不均等な脅威の配分と、その両方を考えないと駄目だっていう話なの。
http://twitter.com/tummygrrl/status/15382169047

なるほど。でもそれだと社会的差別の一般論になるのでは。
ある種の「主体−欲望」に関わる話は、極限状況では意味を持たない。私はTVゲームが好きだと言ってもゲーム機もパソコンもなければ意味を持たない。それは当然のことだ。それはセクマイについても言えると思う。極端な本質主義を取らない限り。
だから極限状況という設定が恣意的であるかどうか、が論点になるような気がするが。

パレスチナに関しても、パレスチナベースの女性運動もクィアムーブメントも、そこから発信して/そこに繋がってるアクティビストも研究者もいるわけ。君たち論点を曖昧化してるよ、そんなの衣食が足りてからやればいいんじゃないのって、彼女達に言ったらどうかしら。
http://twitter.com/tummygrrl/status/15382323015

そうですね。彼女たちに敵対する意志はありません。
うーん。
まあわたしの論理からは、セクマイの運動ができるのは「最低限のレベル」を彼女たちが、脱しているからだ、ということにはなるのですが。

それから論点は最初からセクマイに限定されていないの。今回の議論でもフェミ/クィアが問題になっているのだし、そもそもこれは超短期的に見ても、9/11 の後の米国アフガン侵攻の時点で「女性解放」が口実にされ、米国の一部のバカフェミがそれに乗っかった時点からくり返されている話でもあるの。
http://twitter.com/tummygrrl/status/15382691543

それは分かりますよ。でも論点がかみあっていませんね。
「軍事力の優劣という帝国主義的な不均等を、情報操作によってさらに敵を貶めているという現状だろう。その認識はD1に親和的だ。」と書いたのだが。
一方に「タリバン(またはハマス)は女性差別的」という問題があり、他方にガザ総体に対する長期間の封鎖があると。人権侵害を量的に比較できるとすると後者の方が大きい。
だが欧米の宣伝機関は前者だけを強調することにより、結局「どっちもどっち論」になって結局イスラエル優位を覆し得ない。
この図式を平板に解釈すると「フェミ/クィアの問題に対する敏感さ」はシオニズムを利する、となるわけです。
こう考えればいいのでしょうか。「フェミ/クィアの問題に対する(観客としての)敏感さ」は利用されてしまうので重視すべきでないと。「フェミ/クィアの問題に対する(当事者としての)敏感さ」は尊重されるべきだと。
で、当事者が私の言う「極限状態」にいる場合は、そこから抜け出すことへの支援をまず優先すべきだ、とD1の立場からはなります。
(6/4 23.33)

「礼節」について

極限状態ではすべての文化活動はできない。
性的少数者の活動(LGBTQ)活動は、文化であり、私が使った言葉では「礼節」に入ることになる。
(6/5 01.29)

*1:(自分と家族の)生存のためにという価値観はまだ崩壊していませんが。