松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

生物の眼の行列に似た それぞれの表現

 十数種の生物の眼の行列に似たそれぞれの表現は、私のかいたものではなく、学生諸君から私にあててこの数年間に提出された答案やレポートや書簡の断片であり、それらが私の記憶をとおつて再現され、その記述のしかたに私が介入しているにすぎない。語学を媒介にして、このような表現がうまれてくること、少くとも再現されてくることは一見、奇妙にみえるけれども、ほんとうは、語学を媒介にしているからこそ、これらの逸脱が可能になり、関係あるものたちの存在基盤も逆照明されてくるのではないか。

http://trans.hiragana.jp/ruby/http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei
 「たえず一定(いってい)の照明(しょうめい)の下(した)に監視(かんし)されている空間(くうかん)で」に始まる16個の(うち一つは「…」 )断片は、松下昇が書いたものではないことが明かされる。教育という職業では多少のゆとりがあるであろうがそれ以外の職種では言葉は基本的に、効率とおべっか(コミュニケーション)のためにだけ使われる。大学においても初級外国語教育は、語彙と文法の基本を効率よく教えることが要請される。例外に足を取られることは許されない。他の学に入門することが学とは何か知とは何かといったスコラ的な言説を大きく含まざるを得ないことと対照的である。だから語学を媒介にこのような表現が生まれてくることは不思議なことである。
 しかし「語学を媒介にしているからこそ、これらの逸脱が可能にな」っているのだろう。日本語だけの世界で生きていれば気づくことのない、言葉と音、意味と物との裂け目が露呈しそれに刺激された無意識が語り始める。
 この十数種の断片をわたしはあえて松下の表現であるとして解読しようとしてきた。「その記述のしかたに私が介入しているにすぎない」と松下はいうがその文体にこそ松下の本質があるのだという判断のもとに。*1
「十数種の生物の眼の行列に似たそれぞれの表現」と松下は記述しており、他者のものでもわたしのものでものないという文字列の不確定性が異和として松下に感じられたことを表している。
 この十数種の断片(と後の三種の断片)と松下の地の文は、原文(71年刊行あんかるわ版)では組み版上差別していない。「十数種の生物の眼の行列に似た」異和感を感じながらもあえて、差異をわかり難くしている。野原は今回のHP化で、引用断片は「blockquote」で囲いさらにイタリックにしてみた。差異をわかり易くしてみたわけだ。(当然異論はありうる。)
そしてこのたび下記のふりがな付きヴァージョンに出会った。

http://trans.hiragana.jp/ruby/http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei
「生物の眼の行列に似た表現(あるいはノイズ)」がまさに生物のようにうじゃうじゃと増殖してしまっている。生物(せいぶつ)の眼(め)の行列(ぎょうれつ)に似(に)たとわざわざ念を押されなくとも、そういうふうに読んでいるので、音をわざわざ強調されることは不要でありあえていえば不愉快である。しかしこの文章の場合は引用断片と松下の地の文の間の差異、二重性がテーマである。それぞれの文章のうちにある健常者は気づかない二重性を可視化することはこのテキストにとっては十分意味のあることだと考えられます。
したがって、「不確定な論文への予断」については
http://trans.hiragana.jp/ruby/http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei
上記ふたつのHPがいずれも原本であると考えていただきたい。


これは程度の差はあれ他の松下の表現にも言えることである。松下は自己の複数(複素数)性を唱えたが、これは健常者としての自己はそれだけで存在しているのではなく複数の障害者を自分の内に抱えもっておりそれにより深いレベルの交換も可能だとするものだろうから。

http://trans.hiragana.jp/ruby/

http://www.hiragana.jp/
ひらひらのひらがなめがね さんに感謝を捧げておきます。

*1:このような判断には批判の余地があろう。