松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

仮説と廃棄

 私は、いま、かれのことばを訳しているのではあるが、同時に、かれによって、そのことばをかきうつさせられているように思える。……仮説とは、建築に先立って作られ、建築が完成すると取り去られる足場のようなものである。これは、そこで働いている者にとって不可欠ではあるが、かれはその足場を建築物とみなしてはならない。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 うまく注釈できない。以下に書いたことは無関係。
 例えば彫刻を作るときを考えれば大量の削り屑がでる。文章を書こうとするときも同じだ。それはもう大量の廃棄物がでる。廃棄された文章も文章としてそこにあり読むことはできる。それが捨てられたのは、ある求心的目標のための美学的努力という傾斜に人が立ったときだけだ。熱意が失われたとき人はそれがなぜ捨てられたのか分からなくなる。1行の文は一見他の文と同じようにそこにあるのだからそれを削除しなければならない理由はないように思える。何かを作ることができる人は大量に捨てることができる人なのだろう。善意にあふれた人は創造者になれない。