松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

有名な人間たちの表現と、無名の学生諸君の表現とを

 以上の三つの文は、それぞれ原文とは対照しないでおく。というのは、有名な人間たちの表現と、無名の学生諸君の表現とを私の不確定な想像の中で均衡させたいし、また、この論文では、何故か一つも固有名詞を使用したくないからである。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

この3つの文章を誰が書いたものか?知りたいので、はてなでクエスチョンしてみようかな。
固有名詞。松下の場合は、ハイネとブレヒトであったわけだが、日本の学者はおおむねそうしたヨーロッパの大(文)学者一人または数人を選びその翻訳、紹介、論文作成を業とすることになっている。学問とはそういうものだと、それは今でもおおむねそのとおりである。論文に書かれる固有名詞はそうした研究対象、その関係者以外は同じ対象を研究している研究者に限られる。偉大な文学者が偉大な闘いを成し遂げたのは事実であったとしても、私自身が幾分かでも「偉大な闘い」に変身しない限り、偉大な闘いは理解できない。このアポリアを見ないふりをすることでアカデミズムは成立している。有名な人間たちの表現ならばそこに矛盾や曖昧があればあるほど解釈の余地が生まれ、解釈者はそれを喜ぶ。しかし不幸で無名な学生諸君がその混乱のなかで不十分な表現を発した場合、その表現は読み取られることなく、彼女/彼の不幸は気づかれない。そのような落差は当然だが研究者自身のうちにもある。研究することは、自身の不幸に気づかないふりをして、文学者の不幸を課題にすることだ。この落差がこの論文のテーマだろう。


たった4ページほどの短文に時間を掛けすぎである。「純粋に私だけの(ための)」喜びを始めて生み出すことができたのは幸せであったが。