松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アウシュヴィッツのあとで正義を語る

路上のたましい
 
鮎川信夫
 
どこまでも 迷って迷って

家のない場所へ行ってみたい

どこへも帰りたくない

憧れにも恐怖にも 母にも恋人にも

暮れ残る灰色の道が

夕焼空にふと途切れている

http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20080910
ishikawa-kzさんという方のブログから鮎川信夫の詩を引用する。
家に帰りたくないという感情はふつうにある。しかし、「憧れにも恐怖にも 帰りたくない」とはどういう意味だろうか。日常/あこがれ 安息/恐怖 という2項があり帰るべき家とは、前項を意味するはずだ。「憧れにも恐怖にも 帰りたくない」とすると行くところがなくなってしまう。夕焼空にふと途切れている道を歩み宙に消えていく、アニメによくあるそうしたシーンのように消失するしかない。
まあこの詩は淡泊な叙情詩であり、そこまでの絶対的絶望を歌ったものではない。しかし鮎川が常にそうした絶対的絶望を所有していたのであろうことを、推察することができる。

・・・決して誤った問題でないのは、アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュヴィッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。・・・
(否定弁証法 p440)

「決して誤った問題でないのは、」という副詞句に注目する。語り得ないほどの「激烈な罪科」。この本が出版されれたのは1966年、戦争が終わってから20年以上経つ。「生きられない」という激烈さそれ自身は薄れてきていたはずだ。しかし失うことのできる体験でもなかった。そこで「決して誤った問題でないのは、」ということになるわけで、問題は直接性から哲学(知の総体)の問題に移される。
市民的主観性の根本原理としての「冷酷さ」を指摘して、その指摘は正しいかもしれないがそれでどうなる。正しくても間違っていてもわたしたちは市民社会を明日も生きていくのだ。と居直られるだけだろう。
文化や哲学といったものもまた、そんなふうにすでに存在しそのことによって存在しつづける権利をあからさまに要求して恥じない。しかし哲学だけは「正しくても間違っていても」という副詞句を許容することは許されない。そのような苦い確認からアドルノはこの大著を書き始めたのだろう。


この世は神(あるいは真理)が支配する場だということの確認がヨーロッパ哲学の目的であった。したがってヨーロッパ文明の中核がアウシュヴィッツの犯罪を犯したことは、すなわちヨーロッパ哲学とヨーロッパ文明全体の全面的崩壊につながることである。暢気な日本人には理解できないがそうした事情は確かにあった。
犯罪の責任をナチスにだけ限定し、被害者たるユダヤ人にはパレスチナの一部の土地を与える、という形でなんとか再出発は果たされた。

ヒトラーは、自由を剥奪された人間たちに対して新しい定言命法を押しつけた。それは、人間は自分たちの思想と行動にあたって、アウシュヴィッツが繰り返されないように、似たようなことが二度と起きないように配慮しなければならない、というものである。(略)この命法を議論の対象として扱うのは、冒涜というものであろう。(同書 p444)

 アウシュヴィッツと似たようなこと、とは一体何だろう。今回のガザ空爆をそれに挙げることができる。
 実際に民族を消滅させようとした600万人殺害に比べると規模が違うという弁護論がある。しかし約900万といわれるパレスチナ人に対し、60年間イスラエル国家は国家と生きる希望を与えることを拒否しつづけ、将来的にも絶望しか与えないことを宣言した。ガザ空爆はそうした意味を持つ。殺された者たちのオーダーが千人単位だからといって、ジェノサイドにはならないというのは言い訳でしかありえないだろう。で問題は、「わたしたちの文明の中核」がそれを遂行したのか?という点だろう。ブッシュ政権イスラエル国家とほとんど一心同体であり、オバマ政権もそれを覆し得ていない以上、答えはYESである。


絶対的絶望は担うに重すぎる。だが、論理的哲学的にそれに接近することはできる。正確に接近しなければならない。