松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

野原は「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」

と主張しているのか?

コメント: Nobuo Sakiyama [メンバー] Email · http://www.sakichan.org/
> らしいが
これはこのエントリのはてブにそういう話がありますね。

> 「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」
http://blog.goo.ne.jp/hanxiucao/e/ecfd69e72c55860d0255726017c110c5
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081213#p1


http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma

えーとどうでしょ。そんなものはないじゃないの。国益にも反するし。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである。

えーとまず「言論する公共空間」をどうとらえるか、という問題がある訳です。ハバーマスの場合は分かり易い(ような気がする)。がわたしの思想とは違うようです。例えば、ドゥルシラ・コーネルはこう言っている。

性、ジェンダーおよびセクシュアリティは、私たちに単に所与のものとして与えられているわけではないのだから、(略)、私たちの想像力を自由に働かせることのできる空間が必要になってくる。
P25「自由のハートで」isbn:4915252523

 現在既にある言説空間の基軸がすでに大きくずれているので、全く新しい語り方、生き方しなければならない、そういうふうなことを言うのが、 ポストモダンないしポスト構造主義であると、私は理解している。現在日本に存在する「言論する公共(的とされる)空間」をなんの疑問もなく是認した上で議論を立てることを怪しまないのは、デリディアンではない。
 

野原が「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」と主張するとしたら、それはあなたとの対話という空間においてだ。
1.公開。
2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。
3.このゼミ(対話)で討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。以上が私の原則だ。
南京大虐殺がなかったと断言する主張を持つものの参加は拒否されない。しかし2ちゃん的匿名参加は固定ハンドル参加に訂正されるべきであるとする。「南京大虐殺がなかったと断言する主張は」ある個人によって担われた場合、対話への参加を拒まれない。しかしきみの意見は無意味だ「存在する権利がない」と言われ続けるだろう。
従軍慰安婦問題については、id:lunakkoさんという人はわたしたちの会議室で大暴れした後、ブログで同じことを毎日反復していたことがあります。このような時、どう対応すべきか迷うわけですが、わたしは後半彼女/彼に応答しませんでした。体力もテクニックもないので消耗をさけるためです。結果的に応答はおわっていますが、「終わった」とは思っていません。中断しているだけだと捉えてています。基本的に10年後になっても議論を継続しうるという気迫がなければ発言などすべきではないと私は思っています。


結論としては、野原は「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」と発語することはありうる。しかし、「ある主張が存在する権利を持つ」というときにあなたが想定している言説空間は、野原にとっては自明でなく意味が良く分からない。ということかな。