松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

崎山伸夫氏と「言説空間」

多くの論者は「絶対的真実」について、あまりにも甘く見すぎている。
http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma

崎山伸夫は「言説空間」の成立について、あまりにも甘く見すぎている。今日はイラクである新聞記者が靴を投げたことがニュースになったが、この1ヶ月でイラク国内で何人の人が死んだか、それは報道されないし知る必要もないと思われている。そのような情報が(誰かによって)遮断された上に、あなたが自明だと考える言説空間が成立しているのだ。

イスラム圏におけるコーランも、やはりそのような重みを持っている場合が少なくない。

コーランについて、あるいはイスラム社会における言論の自由に付いて語れるだけの知識を持って語っているのか?

「絶対的真実はない」
そうだね。

それで終わりだ。誰が「絶対的真実がある」などと主張しているのかな。誰もいないだろう。キリスト教徒やイスラム教徒とは「絶対的真実がある」などとは軽々しく口にしませんよ。絶対的真実はむしろ神によってしか知られ得ないのだから。

端的な事実として、現代のヨーロッパでは、ヘイトスピーチへの法規制が進んでいる(ナチズムの記憶のあるドイツに限定された動きではない)。「公共空間の言論」から、特定の形の主張を「平等と反差別」のための「市民的合意」として、国家権力をもって排除するということである。
http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma

ポストモダンラディカリズムからは問題があると指摘されるでしょうね。わたしは勉強不足ですが。

右派・保守系組織が危機感を表明してきたのは、そのような意味では(私個人の法案への賛否は別として)根拠がないわけではない。

レイシズム丸出しのネトウヨに権利を語る権利があるのでしょうかね。

あと、東氏がメタレベルで議論することを上から目線過ぎと嫌悪するむきもあるが、そもそも問題の科目は「ポストモダンと情報社会」だ。情報社会を論ずるということは必然的にコミュニケーションの形式をめぐって論ずるということになり、コミュニケーションの内容は主要な関心ではない。

 「ポストモダンと情報社会」において、自己の想像力がシステムによって予め与えられたエリアの中で動いているにすぎない(かもしれない)ことへの自省がない。現状を対象化相対化するためにメタレベルが必要なのに、彼の場合は現状を平板なままに肯定したいという良く分からない被害妄想的自己保存のためにメタレベルに立ってしまう。