松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

他者の意見の尊重

「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」(東浩紀
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

言論が開かれていることだけが要点なのであろうか。
オリンピックは身体の祭典でありしたがってもっとも速いものではなく、最も遅いもの(身体障害者)が讃えられるべきである、というようなことを東は主張したいのだろうか。そうでないとすると、・・・

念頭にあるのはH.アーレントの次の一節である。「複数性という人間の条件、すなわち地上に生き世界に住まうのが、単数の人ではなく複数の人々であるという事実。たしかにこの複数性こそすべての政治的生活の条件であり、その必須の条件であるばかりか最高の条件である。(p20「人間の条件」)」

引用しているのは齋藤純一であるが同じ一節は東の念頭にもあったであろう。
「人々は他者と共有する世界について、その人が占める立場の違いに応じて相異なるパースペクティヴを、したがって相異なる意見(ドクサ)を持つ。」その一つひとつが語られるに値する、と考えるべきだ。
でそれをもって、東は南京大虐殺否定論が語られるに値すると考えた。都合のよいことに、共通のTruth(真実)に(暫定的にせよ)達することを議論の目的にすることにアーレントは否定的だった。南京大虐殺否定論は永遠に存在する権利を得ることになる。
しかし、アーレントをそう理解してよいのだろうか。アーレントは、議論の目的は「それぞれの意見が含みうる(独力では避けがたい)自己欺瞞の要素を相互に解体する」ことであるべきだと考えた。そして意見が意見であるためには個人が個人であること、「他者の意見を代理=代表する立場には誰もいないという条件を真剣に受け止める」ことが求められている。
南京大虐殺論争の中間総括として次のサイトがある。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/FrontPage*1
南京大虐殺がなかったと断言するひとは(独力では避けがたい)自己欺瞞の要素に気づき訂正していこうとしただろうか。否。みんな=日本人なら同じ意見を抱くべきだと信じそう発言しただろうか。肯。
この2点で、南京大虐殺なかった派が議論に参加する権利には疑問が付けられるべきだろう。


そうすると残りは、「絶対的真実はない」だけだが、これはsumita-mさんが検証さられように無意味な言表である。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081212/1229113596


ポストモダニズム系リベラルは、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾けたなら、その声に場所を与える必要ために何が必要かを、簡単に助言することができなければならない。


東浩紀批判シリーズは、まとまりなく3回目です。
(1)http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/20081129/p2”事実も又成長する”
(2)http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081209

*1:このサイトに公平性が欠けていると思うかたは、その旨を具体的にコメントしてください。