松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

伝統/母語/身体

先ず、私は「伝統」という時に、所謂ハイ・カルチャーに限定したつもりはありませんでした。それよりも、「伝統から疎外」というのはそもそも現代(ここでは近代というよりも現代というべきでしょう)の条件なのではないかという意識があります。細かい議論は省きますが、産業化、都市化等々の社会変動によって、それがハイ・カルチャーであれ「低文化」であれ、或いは民俗文化であれ、「伝統」というのは母語を習得するような仕方で身に着けられるものではなくなっているのではないか。つまり、わざわざお勉強したり習い事をしたりするものへ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081205/1228412291

うーん、そうですね。
いやわたしなんか東アジアの文化伝統が云々とか言ったりしてみることもあるわけですが、わたしの身体に日本人のあるいは東アジアの血が流れるのを実感できるかというと、あやしいものなわけです。*1
ただわたしの存在様式はやはり底の部分で日本社会や日本語に規定されていることは確かなように思えます。西洋哲学なんかそれなりに少しずつ何十年も読んできたのに全然分からないもの。
宇多田ヒカルの歌なんか、やはりR&Bでありながら一面日本的あるいはヤポネシア的な平板さを顕著に持っていますよね。

*1:台湾原住民のビュマ族とかの民謡を聞いたときくらいかな、日本以外に<ふるさと>を感じたような気がしたのは。