松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

現代中国知識人批判(その2)

中国文化をまるごと否定して、劉は自由平等の西欧文化を肯定する。

西洋文化実証主義の精神は、倫理学においては功利主義の倫理観とした現れている。(略)その最大の特徴は鮮明な個人主義の性格であり、その根本の基準は個人の幸福と権利である。個人の幸福と権利は、社会の政治的利益、道徳規範より貴い。*1

そして社会の公共の法則(政治的なものであれ、道徳的なものであれ)は、個人の幸福と権利を実現するためにつくさなければならない。まさにこうした倫理観が、西洋の近代の民主制度に人間性の基礎を提供したのである。
経済における私有財産の権利、政治における民主主義の権利、倫理における個人の価値選択。思想、言論、信仰の自由。
人と人との関係においても、自由競争が個人の能力だけによってなされる。法律に違反せず、他人の権利を侵害さえしなければ、誰もが完全に自己に属する。これが自由というものである。*2

 日本人が読むと教科書どおりのことを言ってるだけじゃん、と思ってしまうかもしれない。私有財産制がおおきな矛盾を産むことも事実だ。しかし
結局何が一番大事なのか、わたしはつきつめて考えたことがあるのか。天安門事件から20年、専制主義と結局のところその枠から逃れられない知識人たちの有り様を批判した劉は、当の専制主義(=国家)によって囚われている。国家転覆罪容疑だ。この本で劉は「マルクス主義社会主義を放棄せよ」と明確に述べている。劉の思想に共鳴する人が増えれば、現在の中国の体制は大きな転換を余儀なくされるはずだ。しかしこの本を読んで分かるのは、国家転覆や革命を目指すといった政治的行為を行おうとしているわけではないということだ。
わたしたちの諸活動の根拠といったものが、実はかなり歪んだ形で存在し、その歪みをわたしたちはほとんど自覚していない。これが彼が言っていることである。
 明治維新以来日本人はゆっくりといえばゆっくり近代を成熟させてきた。その歩みに大きな歪みがあろうとも。(対外的侵略という問題と、主体の確立の不十分という点と二つ歪みがあるととりあえず、考えておく) 法治国家や民主主義というものにおいて日本が内部で争いながら達成し得たものは、普遍的なものから遠くまた誇りうるものでもない。しかし戦後の出発点でわたしたちは(比較的にはあたうかぎりリベラルといっても良いだろうところの)自由と民主主義を保証してくれるはずの制度を手に入れた。そうした制度はやはりかなり良いものだったと評価しうる。制度にもかかわらずわたしたちは他の要因によってこの程度の社会しか手に入れられずにいるのだ。
 個人の自由を思想として高らかに唱えることを別にしないとしても、言論の自由表現の自由は当然勝ちとられるべき常識であると思う。言論の自由表現の自由を認めると制度が高らかに宣言しても、実際にはひどく不十分なそれしか存在しえない。
 劉が行っていることは「批判」である。来るべき社会とそれに向けた革命をアジテートしているわけではない。制度が整備されたからといってそれでOKということにはならない。しかし言論の自由がない者がそれを求めるのは当然である。

近代の個人主義倫理学は、現代にいたって単一の生命体としての個人を至上とする生の哲学に発展した。それはもはや経済上、政治上、などの世俗的利益を重視しない。それは、一人、ひとりが不条理な世界と虚無の人生に向き合って独自の生き方をし、くりかえしでない生き方をし、個体の瞬間の生命を歴史の大河のなかで空前絶後の独特の存在たらしめることを強調する。よって、生命の意義は画一的な社会的類型を拒むことにこそ求められる。*3

20世紀全体の倫理思想史を「生の哲学」という言葉で総括している。瑣末な差異にとらわれがちな日本人の常識を越えた把握で、とても興味深く感じた。


ところで劉を読んで、わたしは竹内好を思い出したのだが、この二人には明らかに共通点があると感じる。竹内は日本人に反省をせまり中国の体制には好意的だった。その中国共産党の体制に対する評価においては正反対ともいえる。共通点はどこにあるのだろうか。中国(あるいは日本)の知識人のあり方(生き方)をその伝統に遡って批判し、根底的に批判することを通してしか希望にたどり着けないとした確信。そしてそれを魯迅に学んだということ。この二点において劉暁波と竹内には共通点があると言える。

*1:p195 同書

*2:一部文章を短くして引用。 p195 同書

*3:p196 同上