松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私はなくても

KAWADE道の手帳「ドゥルーズ」というムックを図書館で借りた。*1
最初の松本潤一郎というひとの文のなかに次の文があった。p3

「私」というものを肥大化して捉える傾向をドルーズはすごく嫌っている。 p3

わたしが経験し知覚するのではない。逆。いろんな観念や出来事があって、それが一つのシステムとなって立ち上がると「私」というものが出てくる。私は結果だ。というふうなことらしい。
とても興味深いと思った。

 正しさを求める権利がわたしに最初にあるという発想を否定したい、と思う。
どういうことかと言うと、例えばビルマイラク問題の集会でもなんでも良いがそこに行くのは何故か? そのような問は問うべきでない。ビルマと自己との間に適切な関係があるべきもという勝手なアプリオリがそこには前提されている。ビルマはその研究者(講演者)にとっては存在するが、私にとっては存在しない。というか、ビルマが存在するのだから、(ビルマを知らない)私は存在しないのだ。だがここで倫理的自己否定をしたりするのは最悪である。単にビルマが存在し、それに向き合うべきわたしはほとんど存在していないという状況を、肯定も否定もしないことが大事だ。
 
 だいたい人は世界というものをどう考えているのだろう。ちっぽけな私が理解しうる限りの世界が世界か? 違う。私が理解し得ない広大な領域があるからこそ世界である。自分が自分の中できちんと位置付けられないニュースや体験、それらはどちらかというと不快なものだが、それを早急に消し去り快につながる情報を摂取せよという命令がわたしたちを支配しているように感じる。ここで快とは知的快感、正義感を含む。
 ここに確かに今までの左翼の欺瞞も含まれる。彼らは他者や歓待を口にするが、それを口にしている限りにおいて、たいていの本物の他者がやってきたときそのものをあなたはわたしが想定していた「他者」ではないとお引き取り願うことになることになる必然性を考えていない。
 確かにわたしは私でしかなく、未知の物も私に理解される限りでしか私にとって存在しえない。しかしここで「私とは 一つの習慣だ。 (ヒューム)」という命題を想起するのは意味あることだ。実際、1回目のビルマの集会と2快目のビルマの集会は全く違ったものだ。右翼はそれを洗脳と捉え、変わる前の自己だけが正しかったとする。左翼は逆に変わった後の自己こそ本来のものだとする。いずれにしても変容する自己を捉え損ねている。しかしまた変容を記述するべき審級が存在しないことも確かななのだ。記述の外側にある感触を否定せずにわたしたちは生きていくべきだろう。
 ブログや日記を書くというのも問題がある。起こってしまったことに対してそれを自己に引きつけ整理されたものとして再提示する。自己は矛盾がない物として再構成されてしまうのに、その作業に気がつくことは極めて困難だ。世の中にある正義論も正義論を書き始める権利が自分にあるという前提で始まっており不思議だ。