松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『フェミニズムの政治学』を読む(2)

さて「フェミニズム政治学」の核心は、第2部「ケアの倫理の社会的可能性」である。この本はとてもきれいな構成をもっている。各部が3章からなり、最初に序論が、最後に小括があるという形を取る。

序論  なぜ、家族なのか
第1章 ケアの倫理からの出発
第2章 私的領域の主権化/母の自然化
第3章 ケア・家族の脱私化と社会的可能性
小活  家族の脱私化から脱国家化へ


フェミニズム業界では、家族の価値を肯定的に賞賛することはタブーとなっている。それは女性を母として美化し、その領域に閉じ込めようとする言説が圧倒的な力を持っているため、そうしたイデオロギーに屈服したものとみなされるからだ。しかしだからといって、母のやっていること、ケアと名づけうるようなことを無視することも、公私二元論でそれを無視していく現在の状態を追認していくことになるわけで取ることができない。だからタブーを無視して果敢に考えて行くしかない。

一方で、人間がそもそも無力な存在として生まれてこざるを得ない限り、ひとは一人では生きていけない。すなわち、生まれてきたすべての人間存在は、すでに生きる能力を身につけた他者に依存し、物質的・身体的・精神的なケアを受けなければ、生きる能力を持った者へと成長できない。わたしたちはみな、誰かの下に生まれ、世話をされ、成長してきた。そして生まれたばかりの新しいひととそのひとをケアするひとたちの集まりを、わたしたちは家族的なるものと認めてきた。なお、この場合の家族構成員は、生物学的な血縁者に限らない。p144

家族という社会の構成要素から発想するのではなく、私が生れ落ちた赤子であった時のその存在様式に焦点をあてそこから社会を論じていこうとする構えである。
ところで、ケアとは、心配・苦労、世話・介護・手入れ、配慮・注意 と3つの意味があると辞書にある。三番目の意味を大きく含んだ「世話」といったイメージでまず受け止めておきたい。

ほんの十五分も思うようにならない生活を自分にさせる子どもをうとましく感じた。怒りがこみあげてくる。自分を取りもどすすべはまったくないと感じ、それでは不公平だと思った。私のニーズはいつも子どものニーズと秤にかけられて、しかもいつもわたしが負けるのだ。…情感にあふれ、ずっしりとした伝統に支えられた生活の形は、かっての母親たちもそうであったように、わたしには潮の干潮のように抵抗できないものに思えた。(アドリエンヌ・リッチ)p149

母であることは否応なく自律的主体になってしまった私たちにとってとんでもない負担である。生きるあり方を変えなければそれに対応することはできない。

「〈わたし〉という意識が育まれるためには、「あなたはそこにいる」と応じてくれた他者がともかく存在した、という事実」*1が先行した事を岡野は再度強調する。それは、自律的主体というフィクションの上で生きている(わたし)において、「すでに意識の外に放擲されてしまっている」だろうところの「事実」であるわけだが。
感知されないかもしれない「自ら意識する以前の、こうした過去」、政治学の、言説の根拠がそれを取り込みうることを岡野は明かそうとする。


ギリガンによって見出された「ケアの倫理」が第一に命じるのは、「他者を傷つけないこと」「危害を避けること」である。p156
他者の状態とその者がおかれた文脈を注視すること、においてケア実践は行われる。「傷つけないこと」といった否定形で語られるからといって、他者に干渉しないことでは達成できない。なぜなら、あるひとが「つねに他者とつながり、かつ、他者に依存するために、他者に応答されないことによって、傷つく存在である」事がケアの前提であるのだから。往々にして先例なき事態に対して、そうした事態のなかで発せられる「他者からの声」に応答する責任が果たされなければならない。


近代的公私二元論においては、公的領域においては人は権利において平等である。しかし、「血縁関係、友情、愛、セックス」といった私的領域は個人の決定に委ねられる領域であり、道徳的・政治的な考察から排除されてよい、とされる。cfp195
愛(他者との交流)を哲学の主題にしたのがヘーゲルだとも言える。しかしそれは、「単一の自立した存在であり、他をすべて排除することにより自己同一性を保つ」*2そうした存在を主人公にしたものである。「ヘーゲルは、他者が存在していなければならぬという本質的な必要性は全くもたず、自己確認のための単なる媒介として他者を使用するものとして自己を想定する(ベンジャミン)」p205 


主流の精神分析においては、原初に甘やかな閉鎖的母子同一があったとされる。したがってその母子同一の統一体は破られなければならない、父という第三者によって、という構成を取る。実際には他者のいない母子同一の世界といったものはありえず、葛藤と矛盾に満ちたそれを必死の努力で保持しているそうした緊張関係であるのに、そのようにみることができないのだ。


ケアは具体的関係性において行われる行為である。世界に新しく生まれた赤子は、多様な異なりを抱えた諸個人の偶然の集いである「家族」に出会い、ケアされる。ということは現在とは違った形の「家族」のあり方が本来可能であるということである。自律的主体中心の公私二元論イデオロギーは、現在の政治・社会を保持するために存在すると考えてよい。

その証拠に、母親業の社会的価値を認めようとしない近代的な政治理論は、同時に、依存関係をめぐる営みについては、法制度上、しっかりと国家管理の下で、主権的主体が支配する私的領域にとどめおくべきだと論じ続けてきた。したがって、わたしたちは、家族の私化は、家族が国家化されていることに他ならないことに気づくべきなのだ。(略)
依存をめぐる営みを国家に人質に取られてきた「家族」から解放し、脱私化することは、私たちが社会を、傷つきやすい存在を中心に構想する道を拓いてくれる。*3

というわけで、話は第3部に続いていく。

*1:p151

*2:p131『精神現象学』作品社

*3:p248