松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『フェミニズムの政治学』を読む(3の1)

いよいよ今日!3月30日(土)18時から20時  講座 「個を育む、しくみ 男女平等・憲法・ 国家」 *講師:岡野八代さん(同志社大学教員) 西宮市男女共同参画センター411 阪急西宮北口駅南口から約100m。「プレラにしのみや」4階 ウェーブ

突然、岡野八代さんを読み始めたのは、上記企画に、勝手に協賛するためです。


で、第三部*1の紹介をしたいのですが、いつもながら上手くできないので、
「註」の一部分を紹介してみるという試みを、します。


p265つまり、「第3部フェミニズムと脱主権国家論 第1章 フェミニズムが構想する平和 第2節 反・本質主義的なケア論へ」のところを読み始める。
 ケアという営みを肯定的に論じようとする場合、それを「日本社会の与件に制約された、日本のフェミニズムの限界を示唆する」思想だと決めつけたらしいところの上野千鶴子(1986「女は世界を救えるか」の157-158)が形成した「共通理解」が立ちはだかる、と。*2
しかし岡野は、ギリガンが考察したケアの倫理を平和論へつなげる事を試みたルディク(Sala Ruddick)の『母的思考』を紹介していく。でルディクは「方法論としてはナンシー・ハートソックの提唱するスタンド・ポイント理論に依拠し*3」ているらしい。


ここに岡野は(8)として註をつけ、p391で、スタンド・ポイント理論の特徴を紹介している。(Hartsock 1998 107-8)


それを野原がさらに、わたしに分かり易いように「超訳」してみる。

1、貧しすぎると、世界を理解できない。
2、支配者のものの見方と他の人びとのものの見方が違うとき、
支配者のものの見方は全能でない故に、修正されるべきである。
3、支配階級(or支配ジェンダー)のものの見方が、物質的な関係性を
作っており、あらゆる立場のひとがそこに参加を強要されている。
したがって、単純に誤りだと否定できない。
4、抑圧された集団のものの見方は闘争の過程の過渡的なものだが、闘争過程で磨き上げられる。
支配階級(or支配ジェンダー)のものの見方が隠している存在の重量を感じる力から発する。
5、抑圧された集団のものの見方も社会関係に拘束されている。しかし、現在の関係性が膨大な悲鳴を上げている人を生んでいる以上、その立場に立つ方が、よりましな未来を展望しうる。


以上のうち、3が特に重要であると思う。つまり、主婦は賃労働に参加すべきか
という議論で、働くこと(パートあるいは正規で)は
「体制によって参加を強要されている思想〜行動なので、単純に誤りだと否定すべきでない。」わけである。
また、私のTLで盛んな日の丸嫌いをデフォルト化したい左翼についても、それがある思想上普遍的と立証できるとしても、「日の丸は体制によって当然とされている思想〜行動なので、単純に誤りだと否定すべきでない。」ということになる。


「体制によって当然とされている思想〜行動なので、単純に誤りだと否定すべきでない。」というのは、国防や原発についても言える。


「単純に誤りだと否定すべきでない。」とは肯定することではない。相手の前提を
認めたような顔をしながら、こちらに有利な結論を導きだすことである。
このような、(相手(主流派)にとっては)歪んだ議論の仕方は、弱者である女性が数千年来得意としてきたところである。私たちはそれに学ぶべき、という立場に立っていると知るべきだ。
いわゆる左翼は、自己の思想肯定(そのために、それに都合の良い他者にばかり注目し、それを否定して得意になっている)を基本的な思想動機としており、社会変革も自己変革も少しも本気でする気がないという批判がありますが、それは当たっているように私は思う。そうではなければどうすれば良いのかと考える時、岡野の断片は示唆的であるように思う。

*1:フェミニズム政治学--ケアの倫理をグローバル社会へ」 岡野八代 みすず書房 2012年

*2:p265

*3:p265