松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

言説摩滅装置との戦い

巨大な言説摩滅装置

さて、すべての批判を(少なくとも政治的には無化する)巨大な言説摩滅装置としてイスラエル国家とそのシンパが存在する。それとまったく異質であるが、同じくらい強力で、巨大な言説摩滅装置が日本には存在するのではないか。隣人愛を先鋭に追求する実行が、一方で別のカテゴリーの隣人を殺してしまうことに帰着するイスラエル。倫理からの脱落こそが倫理でなければならないとする反スタ的潔癖さが、ずぶずぶの自己肯定だけを招き寄せる日本。
すべての批判は自己批判を(論理的には)含んでいる。自己批判を忌避することがおしゃれな身振りであると(それが最もメインの含意であるところの)(あらかじめ骨抜きにされた)批判のスタイルというものが、存在する、日本には。それは春樹風の批判というものだ。
そうであるとすれば、「春樹風の言説」の総体こそ、わたしたちが戦わなくてはならない当のものである。でもって、id:tmsigmund:20090220こそその先頭に立っている文章であると。

幻の「正義の原点」から語り始めること

わたしたちが一番注意しなければならないものは、自己が持っているいらだち(閉塞感)である。それは日常を越え正義を希求するエネルギーの基になるものだ。しかしそれを反転させ、ひとつの幻の焦点を作りその幻の「正義の原点」から世界を語り始めること。それは自己が持っているいらだちとの対話に過ぎず、多様な矛盾がわたしが知らない次元で殺しあっている世界に切り込めない無効な思想でしかない。であるのにその事に気づくことができない。

わたしは春樹を読んだか?読んだことはあるのだが、むかしのことだし評価ははっきりしない。凡庸な読者にすぎない。

(悪質な自己慰安装置を販売している春樹というtmsigmundさんの指摘を受け入れた上で書きつづけるが。)ブログには何でも書ける、おれは悪だともおれは正義だとも書ける。なんでも書けるのである以上、少なくとも「おれは正義だ」という命題は限りなく虚偽に近い、と結論できるではないか。この論理は強力であり抗弁は難しい。

しかしわたしたちは正義なしに生きることはできない。そこで選択肢は二つである。ブログを撤退するか、ブログのなかにも正義は生存可能だと強弁するか、の二つ。
言説の摩滅に抵抗するためにはどうしたらよいか? ここで先に書いた誘惑がやってくる。幻の「正義の原点」から語り始めるという。
わたしたちの取るべき道はそこにはない。
ではどうしたらよいか。言葉は差異だ、という命題も多義的だ。差異をどう受けとるか自由であるから。この記事の冒頭は文章ではなく「壁」の写真を置いてある。*1 ひとつの言葉を聞いただけでトラウマに襲われるという体験が存在する。あるいは、「月だけが壁を越えゆく」というありふれた比喩。しかし実際に写真のように強大な壁があなたとわたしの間に(すでに)存在し、わたしの人生が十年、二十年とその壁とその壁の上にかすかに残った空を見上げることであなたをしのぶ、そうした体験で占められたらどうか。鳥だけが越えられる、月だけが越えられるといった比喩が洋の東西を問わずかってはとてもポピュラーな比喩だった。そのことはそうした体験が誰でも理解できるほど身近であった、ということだ。
言葉は血を流さないでしょうか。 
・・・
わたしたちはそう反問しなければならない。

(ということが私が言いたいことだ。)
さて、 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090222#c1235274700 の1から4ですが。
(1)
「村上にはそのイスラエルの度量から逃れる、かすかに開かれた自由の方向があるからです。」村上というその人がそうであったとして、村上はオバマと違って政治家じゃないので、わたしたちは彼が持っている「かすかに開かれた自由の方向」に興味を持つ必要はないんじゃないでしょうか。

(2)(3)わたしは村上のメタファーと戯れてはいません。(tmsigmund)
「村上自身が言及していることの、ある種の偏りとその意図を批判し、問題にしただけです。」そのことは良いと思います
tmsigmundは村上のメタファーと戯れれることの有罪性を告げているのか? 
「村上のメタファーと戯れること」=「「隠喩」を契機にして、読み手の都合のいい「空想」を書きたてようとする手法は、村上におなじみで、人がなぜそんな単純な手口にコロッといく」ことなのですね。

「壁と卵」というのは、村上のメタファーなのでしょうか。彼が発し一時には終わらないだけのポピュラリティを獲得するだろうところのメタファーである、として。蔓延してしまったある比喩にどうあらがったらよいのか。正攻法による批判はもちろんしなければなりません。それと同時に、「壁と卵」はヒューマニズムに回収されない比喩である、そうとしか受け止められないという読みを遂行しつづけること。これは意義があることであり、しかも容易なことです。(隔離)壁のイメージは容易に手に入りしかも衝撃的であるのですから。

そして、村上が自分の父親のエピソード使って、「殺害者」を「被害者」に仕立てるレトリックをイスラエル国民の前で展開する、その圧倒的な政治的アピールを、まったく問題に出来ない、それどころか「自己免罪」の誘惑に負けている「親パレスチナ支持者」に、文句を言っているのです。

村上の父親=殺害者であったというのは良い着眼点です。というのは、それは幻の「正義の原点」を暗示することはあっても、原点そのものではないからです。
村上の父親=殺害者であったとしても、それは大陸でのことだ。目に見える壁ではなく「海」が彼此を隔てている。「海」によって殺害は自然に忘却され、自己を責めさいなむべき(不可能に近い)反省は、口当たりの良い怨親平等思想とやらに姿を変える。それがまさに、巨大な言説摩滅装置としての日本であると。
これはとても大事な点であり自分のものとして考える必要がある指摘です。

それどころか「自己免罪」の誘惑に負けている「親パレスチナ支持者」

この規定によってあなたは、わたしを含む「親パレスチナ支持者」に喧嘩をうっておりそれを撤回していない。
どうしたものかな。

本来このヒューマニズムが要請するは「パレスチナが置かれている状況を変えるために、あなたも何か役立つことをしてくれ」ということだ。
http://d.hatena.ne.jp/tmsigmund/20090220

 どうも出発点から理解ができない。「パレスチナが置かれている状況を変えるために、あなたも何か役立つことをしてくれ」が目的であったとは! 目的は有罪度50%から、有罪度40%に有罪度を下げることと私には考えられていた。
「あなたも何か役立つことをしてくれ」春樹がパレスチナ民衆のために何かするべきでありしなければならないのか?
しなければならないことがあったとして、それは賞の拒否という形でのエルサレム賞への加担の拒否であった。それ以上のもの期待したのはあなただけだ。

ちょっとはっきりいうと、今回の村上のスピーチに賞賛を送るのは、もともとのヒューマニズムのそこの浅さが、露呈してしまっているのではないか。(同上)

ガザの非道を糾弾する動機はパレスチナナショナリズムでもよいし、イスラム主義でもアジア主義でもなんでもよい。「本来このヒューマニズム」というヒューマニズムが要請されなければならない理由は一切ない。

「本来このヒューマニズム」といったある思想を前提に論が始まらなければならないのか。市民運動に対してこのようなアプローチは不要でありしばしば有害であったことは体験が教えている。
「お前がマルクス主義者であるならば、」「ごちゃごちゃ言ってもお前が世界革命という言葉を捨てられない以上は、」・・・他者を糾弾する言説はこのような前提からはじまる(口にしないでも)。ヒューマニズムという言葉は、そのような体験を経てマルクス主義とかそうした言葉が使用されなくなったのでしかたなく使われている言葉にすぎない。

わたしの父親は殺害者であった、という命題を、どう取り扱うか。
そこから、「それどころか「自己免罪」の誘惑に負けている「親パレスチナ支持者」」を導き出してしまう、とき*2のtmsigumundさんの手つきは肯定されるべきか。
(2/25記)

*1:2/23の記事。いまは2/25で二日経ったが、このままの日付でいく。 

*2:あまりに短いステップ