松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

吹いてみて音が調和し、「候」してみて気が反応したら、

黄鐘第一

(略)
長さ九寸、断面積九分、容積八百十分。

按ずるに、天地の数は〈一〉にはじまり〈十〉におわる。(略)

律管の長さを具体的に示す分や寸の数値は〈声気の元〉にそなわっており、目で見ることはできない。竹を裁断して管を作り、吹いてみて音が調和し、「候」してみて気が反応したら、そのときはじめて音律の数値が形となって認識できるのである。そのときの管の長さを調べてそれを9寸とし、断面積を測ってそれを9平方分とし(本章の「1分」は10分の1寸である)、容積を量ってそれを810立方分とする。「長さ九寸、断面積九分、容積八百十分」という数値は音律体系の根本なのである。度量衡はこれによって基礎を与えられ、〔黄鐘以外の〕十一律はこの数値にもとづいて損益される。
http://hyena.human.niigata-u.ac.jp/files/textdb/llxs/llxs1-1j.html

按, 天地之數,始於一,終於十。其一三五七九為陽。九者陽之成也。其二四六八十為陰。十者陰之成也。黃鐘者,陽聲之始,陽氣之動也。故其數九。分寸之數具于聲氣之元,不可得而見。及斷竹為管,吹之而聲和,候之而氣應,而後數始形焉。均其長得九寸,審其圍得九分。 積其實得八百一十分。長九寸,空圍九分,積八百一十分,是為律之本。度量權衡,於是而受法。十一律,由是而損益焉。*1
http://hyena.human.niigata-u.ac.jp/files/textdb/llxs/llxs1-1.html

ついでに同じ新潟大学の研究室が提供するもうひとつのテキストの「律呂新書」冒頭も、掲げる。
全く違った形の楽器が、<同じ音>をだすことができ、その調和をひとは感じ理解し再現することができる。このことは当たり前のことなんかでは全くない。古代人にとってそれは、最大の最初の<知>であり公表してはならない自らの権力の源であった。そしてそれはまた、数学の始まりにもなった。この文章には原註がある。訳者によるとその原註は、次の数式に翻訳できる。
3.46×3.46 + 0.0284 =12
12 × 90 × 3/4 = 810
上の式をみて私たちはなんの意味もない計算式にすぎないと思ってしまうが、そうではなくそこに宇宙の神秘を解明する<知>が存在したのだ。

*1:私たちは十進法によって世界を認識しているが、10という数字は二桁であり私たちの認識の基礎にはすえられない。9が神秘化されるのは当然である。以上野原による註。