松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「ネット署名」トラブルをめぐって

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061211#p3 の続き。
http://sitebites.homeip.net/blog/193
「ネット署名」トラブルをめぐる考察 | SiteBites Blog を受けて

http://www.stop-ner.jp/ 教育基本法「改正」情報センター
【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます
上記のトラブルについて、Maxさんからの意見が出ている。

(1)まず 電子署名という用語について
下記のコメント欄では

ところで、「電子署名」というとIT技術的文脈では、署名した人の同一性・真正性を保証するための手法をさす言葉です。
http://e-words.jp/w/E99BBBE5AD90E7BDB2E5908D.html
技術に隣接する分野での議論になるのであれば、混乱を避けるために混乱のない用語で表現できたほうがいいですね。

なるほど、確かにそうですね。今まさに現実社会に導入されようとしている旬の言葉かも。混乱を避けるために今後、教育基本法「改正」情報センターの企画は「ネット署名」と言っておくことにしましょう。

この問題に対処するための端緒的提案は、ざっくりと 野原さんのブログで考察されている 。ネット上での「電子署名」と聞いたときに、私は個人の特定と情報の作者の真正性を担保する一連の技術群を思い浮かべるわけだけど、そういった技術群に対する吟味が必要となるのはまだ先のような気がする。そして、そうした仕掛けを構築して手に入れるためには、技術的にもタフな道のりが予想される(不可能ではないが、あれこれ困難)。

ただ私のほんとうの関心はこの問題をきっかけに、いわば夢想を一定の方向に漠然と押し広げることにあります。「そうした仕掛けを構築して手に入れるためには、技術的にもタフな道のりが予想される」と書かれているその困難性とはどういうものなのかを、今後お暇なときにぜひ聞かせていただきたいと思います。
わたしのアイデンティティを支えるものとして国家があるという事態をどう相対化していくかというテーマに興味があります。

(2)IT利用の便利さの反面

市民運動において、『便利な道具』としてIT技術を使用する際は、それらが『暴力的な道具』ともなりうることを考えなければならないが、それを考えないことが運動の主張と相反する倫理欠如の状態になる、と私は考えている。そして、今回の署名システム障害についてはまさにその倫理欠如による被害が、当のよびかけ主体において、自爆的に露見したと見るべきではないかと思う。

このトラブルを、Maxさんは上記のように見る。
『暴力的な道具』ともなりうるとはどういうことなのか正確には分からない。しかし、実際に100筆なら100筆の署名を集める時に要する労力などを考えた場合、ネット署名の簡易性は決してプラスの面だけを持つものではないことは確かである。100筆の署名を集めるために数百人以上のひとに向き合いお願いする労力とのなんという落差! 

インターネットやコンピュータがたやすく利用できる道具として我々の手に入ってから、どれだけたつのであろうか。あるいは署名という行為が請願や申し入れの際に有効な手段として認知されてからどれくらいたつであろうか。道具はいろいろ出来たが、それらの道具立てをうまく配置でき活用されたことは、殆どといっていいほどないと思う。こんな話題を書くたびに、私は自分がラットレースの中のか弱いねずみになったような気がしてならないのだ。

一つはオープンソース運動などの思想が大衆にも理解され共有されるべきだという主張だろう。そのとおりだと思う。
さらに「署名運動」をそもそもどう捉えるべきなのか? 実はわたしは一切の「署名運動」というものにアレルギー反応を持っていた。名前を書くという行為は投票行為と酷似する。その行為が自明な分だけわたしたちは秩序−国家を積極的に肯定してることになる。といった思い。*1

(3)トラブルの理由

URLアドレスからIPアドレスは容易に知れ、それから所属しているネットワークも知られる。そして、外部的なチェックにはなるがトラフィック状況やサーバの安定度やOSまで知ることが出来る。その手順および詳細結果は割愛するが、当該コンピュータは、
* とあるCATVインターネットアクセスを提供するプロバイダのネットワークの配下にある
* Windowsの上にCygwinをインストールしてApacheというフリーのWebサーバソフトを使っている
ということがすぐに知れた。

以下も色々書いてあるが、この程度のことはすぐに分かってしまうわけだ。分かるMaxさんはすごいし、学んでいきたいと思う。
ところで「全面的な公開性を実施してしまう」という方針を軸に考えて行こうとした、わたしは。悪意ある攻撃者が来たらどうするのだという問いがやってくるだろう。「悪意ある攻撃者/セキュリティ」といったカテゴリは「テロリスト/セキュリティ」と余りにも似ているのでいいのかなとも思うわけですが。ここにもアポリアがある。


(4)無責任か?

「予想外の多数アクセス」というなら、どの程度のアクセスを想定していたのか。あるいは予想した当事者である管理者はその予想の妥当性性を十分主張できる人物であったのだろうか。ここが不透明である限り、「予想外のアクセス」が弁解として果たして適切かどうかは判断しようがない。

各種の問題の分析や判断、そしてテストをどれだけ緻密に事前に行っておくかというのは、システムで取り扱うデータの大きさやその影響範囲とバランスさせて考えるべきことではあるが、果たしてそのバランスは適正であったか。

それをきちんと証明することができないまま、こういう広範囲に対するサイバーアクションを募ることは 無責任 ではないかと私は思う。

確かにそうだろう。

主体の尊厳がなんぼのもんだ、ということはない。わたしたちは目的においてと同様、プロセスにおいても主体の尊厳を尊重する作風を身につけなければならない。そのことは何度も強調されなければならない。

今回のサーバ障害は、たぶんに、政府に対して倫理を問うためのアクション自体が倫理的な欠如側面を持っていることを示しているのではないかと思う。そして、誰によらず、 倫理に欠けた行動は結局己の首を締める ということを端的に、現実に示したのであると私は解釈したい。

政府の姿勢のみならず、その非倫理性を糾弾する運動自体も常に倫理的であることを求め、そうであるか問い掛けつづけるべきではないか。

ただここで「倫理の欠如」という言葉を持ってくるのは、どうなのか。否定としてきつすぎる、と感じる。

Maxさんは問題点を的確に解剖してくださった。

  1. 「継続して不通期間を最小にする安定稼動が必要」なのだから、「動的DNSという形態でURLを提供する自宅サーバそのものが選択として」不適切。
  2. CGI自体がすでに広く使われていてある程度安定して動いているもの」なのに、おそらく管理者のソフト運用のミスで、致命的な結果を招いてしまった。

しかしながらそれらは真に「致命的」と言えるのか? 

12月13日0時00分現在、署名総数は15330人です。
http://www.stop-ner.jp/

と主催者は満足そうである。おそらくこの主催者の厚顔さへの苛立ちも、Maxさんに「倫理の欠如」というきつい言葉を使わせる原因になっている。
署名をしたのにそれが失われて再署名していない人が何人いるのか?
署名しようとサイト訪問して入力したのに、回線の混雑などの理由でエラーになり、非常にストレスを感じた。それで結局署名していない人が何人いるのか?
それを問わないで結果だけを誇らしげに提示する主催者のあり方は確かに問題点があるだろう。

しかしわたしたちが問わなければならないことは、
上記の2点の問題点は解決不可能かということである。
後者(管理者の能力不足)は、ソフト設計の段階から「公開」で行っていれば、Maxさんは助言でき、Maxさんの方が能力が高いようなので、よりましなものになったのではないか?
前者の問題も、自己の弱小性を最初から明らかにしておれば少なくも多少はましになったはずだ。「【お願い】サーバの負荷を少しでも減らして、これからの方が署名しやすくするために、一度署名された方はアクセスをご遠慮いただきますよう、お願いいたします。」というような告知を最初からしておくとか。


“自分の予測を超えた”規模の反応があったためにパンクをしてしまった。しかしここではあえて、わたしはMaxさんより無名のシステム管理者の肩を持ちたい。
およそひとが情況に関わるとは、従来の自己のあり方を変えざるを得ないほどのリアクションが情況の側からあった時、に言えることなのではないか。
運動に関わるとは

「技術を用いて運動を支える立場の」方に対し不適切な要求と苦情だけを伝えるわがままなお客であっては、主催者は、ならないだろう。
利用者がすべて、主催者に好意を持ち、多少の不便は忍んでくれるという有利な立場を、一方的に利用していてはいけない。主催者〜システム管理者〜利用者が、討論する中で互いに高めあい、システムが豊かに成っていくことができる。
その端緒としての「公開性」をわたしたちは彼らに求めたい。

*1:この話は今後どこかで展開したい。難しい課題だが。