松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

3人が殺されなくて残念

 誘拐者が「日本国家に訴えれば身代金*1をくれる」と思った。この場合「誰もがそう思う」と誘拐者が思っている場合、それが制度として成立していることになる。誘拐とは何か?、と問えば日本でもイラクでもその意味を知らない人はいないということは、宮台のいう意味で制度*2として成立しているということだ。したがって、「国家に訴えても助けてくれない場合、「『(1)すぐに社会的反応を動員でき、(2)国家もそれを弁える』と当てに出来るようになる」はずである。
 ここで、相手をテロリストと呼べば、彼らはテロリストとしてのつまり人質を殺すという結論を選ぶ可能性が高かっただろう。ここでは同じ事態に対し「誘拐」というパラダイムと「テロとの戦い」というパラダイムの二つが争っていて、小泉は後者を選択したということだ。相手がテロリストとして実体化されると、3人の犠牲は小さいものとなる。3人が殺されることにより、相手に殺人者の汚名を着せなおかつ殺人者を憎むことによる国内の愛国化を小泉は得ることが出来たはずだ。したがって「テロとの戦いパラダイムが正しければ、3人が殺されることを(口にせずに)望むことが小泉にとって合理的な希望であったことになる。これは嫌みで言っているのではない。論理的に言っているのだ。

*1:自衛隊撤退という身代金は高すぎたか?

*2:参照 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=90