全称命題の否定
下記に書き込んだ。
http://plaza.rakuten.co.jp/mizuhonet/diary/20060429/
説得力ゼロ「『ジェンダーフリーとは』を…
経由:http://d.hatena.ne.jp/macska/20060429/p1
macskaさんの懇切丁寧な反論があるので不要なんですが。
「論理的にあまりにも明らか」ですが、いかがでしょうか?というサンプルとして。
いわゆるジェンダーフリー派をAとします。
(1)10人の女が居た場合、10人のうち少なくとも一人は例えばスカートを毎日はかないといけないとかのいわゆる「女らしい」生き方をしたくないと考えている。
(2)『男は男らしく、女は女らしく』という思想は、上記のような個人を逸脱者として抑圧する。
それに対する反論。B。
(1’)10人の女が居た場合、10人のうち少なくとも一人は例えばスカートを毎日はくのが、自分にとって自然だと考えている。
(2’)『男は男らしく、女は女らしく』という思想の否定は、上記のような個人を逸脱者として抑圧する。
Bruckner05さんの主張の要旨は上のようなものですね。
「すべての女は女らしくせよ」の否定が、Aです。ということは、
「ある女は女らしくなくてよい」「ある女は女らしくてよい」が、Aだ、ということになります。したがってBの立場はAに対する反論としては成り立ちません。
意外にも反論が!
野原燐さん
ご指摘は誤りです。これは共産世界のことを考えてみると分かります。
ある日、革命が起きて自由主義国が共産国になったとしましょう。「すべての市民は自由である」という世界が、一夜にしてその否定、つまり自由が否定された世界へと変貌します。その場合、「すべての市民は自由である」(全称命題)が否定されて「少なくとも1人の市民は自由でない」(特称命題)になった、ゆえに共産国家は「自由な市民と自由でない市民が共存する世界」だと言えるでしょうか。
言うまでもなく共産国家は、すべての市民の自由が制限された世界です(例えば集会結社の自由や言論の自由がない)。特称命題は当てはまりません。ジェンダーフリーの世界も同じです。
>「すべての女は女らしくせよ」の否定が、Aです。ということは、
>「ある女は女らしくなくてよい」「ある女は女らしくてよい」が、Aだ、ということになります。この部分が間違いだということです。プロパガンダとしては100点ですが。
もっと実態を知るべきです。ジェンフリの狙いがジェンダーの解消にあることは、現に行われている(てきた)ジェンダーフリー教育の実態を見れば歴然としてますよ。だから説得力がないと言っているのです。(Apr 30, 2006 08:03:50 PM)
Bruckner05さん 反論どうも。
ふーむ。
(3)共産世界への革命のことを考えてみると?
「すべての市民は自由である」 −>
「すべての市民は“自由でない”」 に変わる。
わたしはそうは思わないけれども、仮にそうだとして。
Bruckner05さんは一体何を言ってるのか、なあ?いわゆるジェンフリ派は口先では、「「すべての女は女らしくせよ」の否定」といっているが、本心は(あるいは来るべき革命の効果としては)「すべての女は“女性性を否定せよ”」である。ということのようだ。
ふ〜ん。なんだか分からないが「ジェンフリ」という陰の陰謀勢力が日本を陥れようとしていると。論理ではなく妄想の世界!妄想は論破できません。
(昨日書き込んだつもりだったがミスったか?)(2006年05月01日 07時44分34秒)
「ジェンダー」という言葉を禁句にするな
http://44840889.at.webry.info/200604/article_15.html ジェンダーという概念 ジョグの記録と映画と本のお話/ウェブリブログ
コメント欄で紹介いただいた上記の著者の文章の一部は、「ジェンダー」という言葉の卸元はイヴァン・イリイチだとする。*1
私は、ジェンダーフリー運動とは全く逆のことを言っていると理解していました。「現代社会の病理の多くは、本源的な社会性差(バナキュラーなジェンダー)が破壊されたことから生じてきている」というもので、
イリイチに共感する筆者は「ジェンダーという語を禁句にするなら ジェンダーフリー運動の間違いそのものを批判できなくなる。」と述べている。
以上、「ジェンダーフリー」が嫌いな人でも普通の論理を行使している例。
議論の成立基盤を求めて(5/2記)
「差別や抑圧の問題を「ひとびとの意識の問題」と捉える考え方がそもそも間違いで反動的なの」だ、というmacskaさんの意見に野原は同意します。同意できなければ反論したと思います。「女性差別や同性愛差別という問題がこの社会にはある」そしてその「問題」とは単に議論の対象という意味での問題ではなく、解決していくべき社会問題という意味においてである、という共通了解が、macskaさんと野原の間には、同意するにしろ反論するにしろ議論する前の前提としての共通了解があると思っています。その点では上記の批判においてたまたま批判対象になった意識変革派フェミニストも同じでしょう。
ところで次のように語る人との間ではどうか?
「男女共同参画」がナチなら、それを反動的と呼ぶmasckaさんや野原はナチの自乗になり想像を絶した恐ろしい怪物に成ってしまう。
「議論する前提としての共通了解」を共有しない相手とどのように会話する(あるいはしない)のか? というのは興味深いテーマに成りうるでしょうか?
5)>「すべての女は女らしくせよ」の否定が、Aです。ということは、
6)>「ある女は女らしくなくてよい」「ある女は女らしくてよい」が、Aだ、ということになります。
この部分が間違いだということです。(Bruckner05さん)
上の文章5)から下の文章6)は、論理必然的に導かれます。この点については納得していただけたのでしょうか?
この点について返事をいただいてから、応答の続きを書きたいと思います。
(A2)「「女は女らしく」思想にとらわれてはいけない」
「「女は女らしく」思想にとらわれてはいけない」という命題を野原は肯定します。
ジェンダー肯定の意識を破壊しにかかるのがジェンダーフリーです。あなたが「女らしく生きたい」と思っている女性だとしましょう。あなたの意識は間違っている、その意識は女性差別的だ、あなたは生きた化石だと毎日言われてみなさい。あなたの価値観が尊重されたことになるんですか?
女らしく生きたいと思ってそうしているなら何も第三者が批判がましい口を差し挟む必要はなかろう、というのはそのとおりですよ。世間で「女らしい」と言われる生き方や化粧の仕方をすること自体を批判しているのではないのです。自分の「生き方や化粧の仕方」を自分にはそれがふさわしいと思ってやっているのか、それとも「女は女らしく生きるべき」だからやっているのか?どちらなのかを問うているのです。
「「女は女らしく」思想にとらわれてはいけない」というのは「おまえは自由でなければいけない」という命令であり、その人があらかじめ自由というものを予感として理解していなければ意味不明かもしれません。だからといって「女らしいとされる振る舞いの禁止」と受け取る余地はない。
Bruckner05さんは、「「女は女らしく」思想にとらわれてはいけない」という命題を誤解している。
どうやら理性的に話のできる人ではないようですね。
「ジェンダーフリーは「すべての女は女らしくしてはならない」という世界です。」という命題を、Bruckner05さんは擁護し続けることができませんでした。
Bruckner05は、ブログ上で主張している自らの意見に責任をとれない人士であることが明らかになりました。
ジェンダーレスという言葉
のわたしたちが想像していなかった定義。
“すべての女は女らしく”の否定。
でもって、
すべての女は“女らしくを否定せよ”。
反ジェンフリ派は、全称命題の否定とは何かを理解していない存在ですから、
当然以上の二つの命題は区別できません。
高橋史朗氏
教育委員会での発言例
第1501回(2005年3月23日)
「また、職場における男女共同参画の推進という項目があります。このことについては、県議会でも逢澤義朗議員による質問があり、知事と教育長が答弁しています。男女共同参画社会が目指すものは、男女の人権の平等、同等化であると考えています。しかし、ジェンダーフリーという言葉が、一部で男らしさ、女らしさを否定し、男女の同質化を目指すものとして使われています。これは本来の男女共同参画、男女平等とは異なるものですので、混乱を避ける配慮をしてもらいたいと思います。」
http://www.ajwrc.org/modules/news/article.php?storyid=110 アジア女性資料センター - ニュース
高橋史朗氏
しかしあなたは私の最低限の質問にも答えようとしない。
不誠実だとは思わないのですか。