松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

議論の成立基盤を求めて(5/2記)

「差別や抑圧の問題を「ひとびとの意識の問題」と捉える考え方がそもそも間違いで反動的なの」だ、というmacskaさんの意見に野原は同意します。同意できなければ反論したと思います。「女性差別や同性愛差別という問題がこの社会にはある」そしてその「問題」とは単に議論の対象という意味での問題ではなく、解決していくべき社会問題という意味においてである、という共通了解が、macskaさんと野原の間には、同意するにしろ反論するにしろ議論する前の前提としての共通了解があると思っています。その点では上記の批判においてたまたま批判対象になった意識変革派フェミニストも同じでしょう。
 ところで次のように語る人との間ではどうか?

保守派がジェンフリ男女共同参画を「フェミナチ」と呼んでいるのはご存じでしょう。

 「男女共同参画」がナチなら、それを反動的と呼ぶmasckaさんや野原はナチの自乗になり想像を絶した恐ろしい怪物に成ってしまう。
「議論する前提としての共通了解」を共有しない相手とどのように会話する(あるいはしない)のか? というのは興味深いテーマに成りうるでしょうか?

5)>「すべての女は女らしくせよ」の否定が、Aです。ということは、
6)>「ある女は女らしくなくてよい」「ある女は女らしくてよい」が、Aだ、ということになります。
   この部分が間違いだということです。(Bruckner05さん) 

上の文章5)から下の文章6)は、論理必然的に導かれます。この点については納得していただけたのでしょうか?
 この点について返事をいただいてから、応答の続きを書きたいと思います。