松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

聖断をめぐって

「既に存在する言語資源を基に私たちは言語行為をするしかない。その言語行為は主体的に選び取ったものではなくかなりの程度言語資源の限界によって予め限定されており、その点で『引用』の繰り返しでしかない。その『引用』が繰り返される中で、言語以外のものが何も起きていなくとも(例えば物が移動しなくても)何かが遂行されてしまうとき、その言語行為は performativeである。
何が遂行されるかの例としては、ある人間個体の『内部』に性別に関する本質があるという幻想を作り出し・維持してしまう、(ことをあげてよい)。
http://togetter.com/li/320563

バトラーのパフォーマティヴィティについて、上のような説明がある。
私の場合、「聖断」という言葉は、既に存在する言語資源であるわけだ。で、1945.8までは万世一系天皇が統治する神の国だったのだから、「聖断」(正確には御聖断)はそうしたイデオロギーを遂行的に確認する言葉だ。
一方、ある国家の『内部』には自己同一性、聖性といった本質が存在する、といった普遍的本質主義がある、と考えることもできる。その場合、日本というものの至上性は1945.8で切断されずに継続する。戦前の超国家主義的国体とそのイデオロギーはその特殊形態であったにすぎない、と別の人は考える。
「そのような圧倒的な不幸の累積を、切断し、平和をもたらした物は、ヒロヒト天皇の聖断であった。」
ヒロヒト天皇の聖断について、個人ヒロヒトの意志がどの程度反映しているのか、議論の余地がある。またそれが、肯定されるべき平和をもたらしたのか、それとも否定されるべき敗北と混乱をもたらしたのか、にも相違があろう。

ヒロヒト天皇について、戦争開始及びその継続について責任はないとし、その終結の功績はあるとし、45.8以前の戦争遂行していた日本について否定せず、815の以降の日本については平和という言葉で肯定する。
このように非常にわけの分からない歴史観が、私達の(あるいは自民党の)ものなわけです。


(一時中断)
もう一度書くと、自民党
ヒロヒト天皇について、戦争開始及びその継続について責任はないとし、
Bその終結の功績はあるとし、
C45.8以前の戦争遂行していた日本について否定しない、
D815の以降の日本については平和という言葉で肯定する。

A× B○ C○ D○

下のコメント(削除予定)によれば、シモツカレ氏は
A○ B○ C× D○ のようだ。
つまり戦後の肯定(D、B)については、自民党と同じ。
ヒロヒト天皇について、戦争開始及びその継続について責任はある。
C45.8以前の戦争遂行していた日本について否定する、
Bその終結の功績はあるとし について、
「あの行為は裕仁の保身に過ぎず「聖断」なんて褒める行為では全くありません」と言っているのだが。
一方で「彼が最高指導者なんだから彼の意思が反映するに決まってる」、と、国家の意思=ヒロヒトの意思説のようだ。
そもそも、ヒロヒト天皇機関説を守っていたとし、その例外として行われた行為を「聖断」という、のだが、常識がないらしい。

で、急いでバトラーに戻るが、・・・
(途中)

パフォーマティヴィティの例

例えば、従軍慰安婦について何か言うと、
ネトウヨがやってきて「お前は在日か」「お前は在日だ」という。
これは「日本人なら(言説的に)当然愛国的であるはずだ・そうでないお前は在日だ」という思想を、パフォーマティヴに遂行している例だ。


815靖国参拝、参拝することによりそれが愛国的行為にパフォーマティヴになってしまう。815靖国参拝が焦点化されることにより、愛国か/反日か、あるいは反反戦か/反戦か、といった二項の前者に参拝が割りあてられてしまう。

めんどいが

そもそも、ヒロヒト天皇機関説を守っていたとし、その例外として行われた行為を「聖断」という、のだが、常識がないらしい。

(略)

そういう主張をして「だから俺が太平洋戦争開戦を防げなかったのは仕方がないんだ」と裕仁が言い訳してるのは事実ですけど、

「「そんな例外など存在しない」と言う批判が歴史学の常識」、まあそうかもしれない。