松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

20年8月14日から9月2日まで

終戦の日は、ポツダム宣言の受諾通告と終戦詔書の発布のあった8月14日や、ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した9月2日、あるいはそれらの日の翌日の8月15日、9月3日などとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6

 いまNHKで降伏文書調印の日までの日本の首脳部の動きをレポートしていた。降伏文書に調印すべき全権に、近衛、東久邇宮、あるいは天皇の弟などが擬されたが皆が嫌がって避けたこと。結局、重光葵外務大臣梅津美治郎参謀総長に命じられるのだが、梅津はだだをこねつづけたこと*1、などが印象的。文書調印だけはしたくない。恥だ、という感覚は一体なんなのか。国家が敗北した以上、責任をもって敵と屈辱的交渉をする役割を誰かが果たさなければならないのは当然のことであろう。国家が敗北しているのに、まだいままでの雰囲気をひきずったままうじうじしつづけてたようだ。いままでの常識をふっきり新しい時代にたったひとりで向き合っていくという気概をもった人はいなかったようだ。おそらくヒロヒトさんが一番ましだったのだろう。
 とにかく、この1ヶ月を支配した言葉は「国体護持」である。しかし誰もその正確な意味をつきつめようとはしなかった。
 戦陣訓は捕虜になることを禁じている。そこで天皇はいまから捕虜になることは「捕虜」になることではない、みたいな奇妙な命令を発している。*2武器を引き渡すこともしてよいこととなった。天皇の命令によって武器を置いた。これが「日本は負けていない」と言いたがる人がいまでも多いことの原因となった。
 「一億総懺悔」も「国体護持」の展開形と考えることができる。敗戦の責任者を不明確化することによりとりあえず自分たち支配層への責任追求を免れる。「国体護持」とは要はそうしたことのようだ。戦争に大なり小なり自発的に協力していったインテリや庶民たちも、支配者を追求し、ひるがえって自らの責任についても直視するといった困難な道をとらなかった。「一億総懺悔」といっておれば懺悔したふりだけで実際は誰の責任も追求せずにすむ。


戦争責任云々の歴史認識問題について対外的にも国内的にも大きな溝が開いたまま日本人は戦後63年を迎えるといったナレーションが番組の終わりで流れた。わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。自分の触れたくない恥を直視しないというナルシズムの上に国家を建設することなど出来るはずがない。誰よりも国家を大事にしたいはずの彼らは、結局侮蔑されるべきナルシズムから脱出出来ずに終わった。

*1:最後は出ますが

*2:不正確