松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

神はすべてアマテラスに吸収される?

 日本人の原宗教といったものがどこにあるのか?という問いは、何処にあるか?を問うことによって、有るのか無いのか?という問いを隠蔽する間違った問いであると言える。だがしかし、そうした問いにしばしば人は引きつけられる。それに触れてわたしの書いた文章は下記。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p1

 日本人の原宗教といったものには様々な流れがあるが、それら全てを総大成する形で、明治時代に(奇妙なことに非宗教化されて)国家神道となった。でそれは昭和の時代にウルトラ化し戦争への国家総動員態勢を作っていった。で戦後ぽしゃっていたのだが、最近性懲りもなく復活をはかっている。
 で、その一つのモードが、硬直した国家神道的なものから遠く離れたところに、「縄文」の日本心性といったものを捏造し祭り上げるといったもの、であるらしい。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040118#p1 で引用したのは西尾幹二のこういう文章。
「日本の神々はきわめて具体的な事物や現象において考えられるもので、抽象的理念的な存在ではない」「これは通例アニミズムと呼ばれるものに等しい」 アニミズムはいわゆる未開といわれる地域どこにでもあるもので珍重するに及ばないと思う。しかし西尾氏にとってはそうではないようだ。

野原もまたさっき書いたところで、アニミズムを珍重している。そうしたアニミズムは、日本主義の外側にある物、日本主義とはむしろ反する物だと思ったからである。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p1

「あばはらき」違うか「あらはばき神」も同じである。「あらはばき神」は日本というエリアでアマテラスから最も遠い出自を持つもののようだが、必ずしも敵対しているわけではない。


「あらはばき神」を珍重することは必ず皇国主義者を利することになる。という主張があるように思う。うまく反論できなかったがそれは違うと私は思っている。
(10/1追記)