松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

髑髏を愛国心に回収するな!

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060819#p1
に、密林に放置された髑髏の絵を載せた。大東亜戦争敗戦時の日本兵のものだ。
日本兵の死者数は230万かな、でその半分(以上?)は南の島での餓死病死である。遺骨はほとんど放置されたままだ。
靖国神社に詣って日本の為に亡くなった方の霊を慰めるというパフォーマンスは、注目されることにより効果を持つ。忘れられていた死を「日本の為に亡くなった」という一つの意味に回収してしまうという効果を。
死者は死んでしまっておるが、髑髏はどこかに残されている。髑髏は何を語っているのか。何も語りはしない。しかし私たちは人間であり死者や髑髏が何かを語っているように感じる。

水木しげるの会話は、「ちょうど石橋も会いたいいいよるでナ」というセリフからはじまる。「それは戦友の霊が呼ぶとしか考えられないナ」も同じ意味である。わたしという主体からヘゲモニーは奪われ、死者の呼びかけによって〈わたし〉は招き寄せられる。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060819#p4
に書いたのは、その晩のできごと。骸骨たちは集団で起きあがり、わざわざはるばる現地に来た水木に襲いかかる。「わしら30年近くも だれかこないかと まっていたんだ… …… わしらの気持ちが どんな気持ちか おまえらには わかるまい」「わしら 二十二 三で 生涯を 終っと るん やで」
死者たちのあふれる思いに対抗する何ものも水木にはないのは明らかだった。また死者の思いという表現も正確ではなく、彼らはある盲目的執着により〈悪〉として此の世に現象しただけかもしれない。事実漫画の次の画面では水木たちは遺骨を集め塚を作り酒を捧げ死者たちを慰めようとする。蝶たちが沢山よってきて慰霊は成功したかに描かれる。それでもこのシーンの眼目が骸骨たちの集団的な現前(それはもちろん夢のなかでの出来事なのだが)であることは疑いえない。
 日本でのほほんと過ごしている遺族ではなくわざわざはるばる現地に来た戦友に、襲いかかるという形でだけ、彼らは現在と一瞬コミュニケートできた。
 六十年経っても癒されない彼らのこの圧倒的他者性を、私たちは認識しなければいけない。

 すなわち、靖国神社とは、国民の国家への参画が国力を決定する国民国家時代に、日本人としての愛国心を発露させ、日本の独立を守るために殉じた人々を「神」とすることで、死者に対する最高の栄誉を与える国家の機関であり、同時に、純粋なる愛国心の象徴とも言えるものです。 
http://blog.livedoor.jp/kokuminnokai/archives/50316613.html

上記のような身も蓋もない本音言説を表に出すことが可能になったのが、現在だ。
靖国派が何を「死者に対する最高の栄誉」と考えようが彼らの勝手であるが、髑髏たちの無念の百万倍 をそういった一片の言葉たちでごまかすことはできはしない。