松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

野原燐さんへの質問 へ接近

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090325 で質問をいただいてからだいぶ経ってしまった。お返事が遅れたことをお詫びする。
ただ、ここでももう少し迂回する。
PledgeCrewさんはすぐ翌日、石原吉郎の長い文章を引用してる。

死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側 ― 私たちが私たちである限り、私たちはつねに生の側にいる ― からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちに何のかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に退廃させるだろう。しかしその退廃の中から、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな退廃であると私は考えざるを得ない。

死者の死に「なんの意味もつけ加えることはできない」生者は。と石原は語る。
しかし戦争における死者は常に「誉れ」あるいは「被害(残虐な敵に殺された)」として、国家が大量に感情を動員する材料になる。石原の発言はそのような動員を厳しく拒否し、死者の実存の近くに立ち尽くそうとする詩人の姿勢を示したものであろう。アウシュヴィッツの深淵に近づくためにはこのような姿勢が必要である。
「その意味で、すべての死は「唯一無比」なものだ。それは、どんな場合にも前提とされるべきことだ。」と、PledgeCrewさんは語る。すべての死に話を広げる必要はないだろう。アウシュヴィッツや南京のような「見捨てられた死」をとりあえず考えている。
20090329#p2 に書いたように、アウシュヴィッツは表象不可能に限りなく近い。「つまり言語化することさえできない文字通り想像を絶した状況、「語りえぬこと」を表象することは不可能であり、またそれを行うことは重大な侵犯行為となるという*3。」
しかし、ドイツでも日本でも、それらを隠蔽しようとする巨大なベクトルが当時から今までずっと続いている以上、わたしたちがしなければならないことはそのようなベクトルに対抗することである。
表象〜発言はそれがうまくいったとき、言説空間に一定の存在を得る。ところがそのような成功は逆に死をなんらかの政治的力に変換していることを意味しているのではないか。詩人は常にそのように問いかける。「思考が真であるためには、思考は思考自身に対抗して思考しなければならない。」という深淵を確認しわたしたちはそれでも歩んで行かなくてはならない。

野原燐さんへの質問 へ接近(2)

さて(11日経ったが)、PledgeCrewさんの質問は「「ホロコーストは、他の同様の事件と同じように語ることを許されぬ「唯一無比」のものだ」と語る言説は、プロパガンダである、と判断してもよいのではないでしょうか?(野原)」
という文章についてのものだ。
これについては、Apemanさんからも質問があった。

誰が・どのような文脈で発言するか、というファクターを捨象してなにごとかを「プロパガンダ」と判断することなどできるのでしょうか? RAAを日本軍慰安所と「同じように語る」ことによって特定の政治的効果を達成しようとする人々がいることを、日本社会に住んでいる人間は知りうるはずだと思いますが。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090324#c1237905987

次のとおり簡単に回答した。

おっしゃるとおりですね。わたしは、「「唯一無比」性を強調する」ある種の言説が欧米には溢れており、それが(普通の理解では)プロパガンダであるという事実を問題にしているだけです。該当の文章については、より適切なものに訂正していく用意はあります。
「「唯一無比」性を強調する」ある種の言説が欧米には溢れているという事実については、わたしよりapemanさんや、hokusyuさんの方がよっぽど良くご存知のはずです。
hokusyuさんは良心的学者たちの努力という側面にばかり焦点を当てていますが、逆の側面もいくらでも存在します。

ガザ空爆は、アウシュヴィッツだ!

という断言は存在させるべきではないか? 私はそう言っても良いと思う。
 アウシュヴィッツと似たようなこと、とは一体何だろう。今回のガザ空爆をそれに挙げることができる。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090322#p1

 ガザや西岸地区でのイスラエルの蛮行を非難するのに、ユダヤ人が過去に被った差別や虐殺の歴史を引き合いに出す必要はありません。
http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090325

 必要がないとはしてはいけないということではありません。「シャヒード、100の命」*1という本が手元にあります。アルアクサ・インティファーダの中で死んでいった百人のパレスチナ人を追悼するための写真集です。PledgeCrewさんも見たことがおありかも知れません。で死者一人一人を美術展という形で追悼するというスタイルは、どこから生まれたのか。追悼を形、博物館にしなければならないという強い思いとアウシュヴィッツの表象不可能性との間の激論を含む長い間のユダヤ人たちの豊かな体験。*2そこから生まれてきたものに違いないと私は思うのです。原爆の死者たちや東京大空襲の死者たちは一人一人顔写真と遺品つきで追悼されるといった機会を得てはいません。
また、hizzzさんが紹介されるように、ロマの人たちにとっては、ユダヤ人がすでに獲得した政治的および言説空間的権利を前提として、わたしたちも彼ら並に!、と要求することが最も適切な要求方法であった(あり続けている)ことは理解しやすいことです。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090209#p1 で「「イスラエル」と「ナチス」したことは同じ(1)〜(5)」という写真集を紹介しました。
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14925.htm以下
サンプル 

というのは左にユダヤ人被害者、右にパレスチナ人被害者が、極めて似通った構図で正確に同じ面積だけ映し出されているのだ。どちらも悲惨な写真だから先入観なしに見れば、どちらにも等しく同情の念が湧くはずだ。しかしシオニストはこの写真集に対しカンカンになり、これを決して受け入れることができないでしょう。ホロコーストは歴史上1回だけの決定的な惨事であり比較を絶するものである、これが彼らの根拠であり、それは神学的影響力でもって広範な言説磁場を作っています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090209#p2

私の考える「「唯一無比性」の強調による悪しきプロパガンダ効果」とは、この写真集を抑圧すべきだという効果のことを(例えば)言います。

どこの国でも同じことです。

むろん、イスラエルアメリカによる「プロパガンダ」は、様々な形であるでしょう。それは、どこの国でも同じことです。id:PledgeCrew:20090325

これは私とは全く違った世界認識ですね。アフリカの混乱した国家の千人の被殺害者と日本の千人の被殺害者は全く違った価値を持ちます。先進国の報道される被殺害者と後進国の報道されない被殺害者は価値が違うのです。パレスチナの死者たちは確かにイスラエル人の死者に比べると注目はされないが、大きくは「報道される被殺害者」に入ります。ですから数十人ならともかく千人以上殺せば当然イスラエル国家はその国際的地位を失うはずです。それを失わないのは何故か?「ハマス=テロリスト」を含んだ「プロパガンダ」の効果ではないですか?

あなたの言葉は、そういった点についても、いささか慎重な考察に欠けた粗雑なものであり、単純過ぎるように思えます。(同上)

おっしゃるとおりであり、今後注意はしていきたいと思います。ただわたしの文章に対して、「ホロコースト否認(および否認への寛容な態度)に利用されてはならない(Apeman)」という1点だけに反応するセンサーを行使するのはどうなのか。むしろいま必要なものは、「今後も続くガザ等への抑圧に目を向けさせるか背けさせるか」というセンサーではないでしょうか?

*1:シャヒードはアラビア語で殉教者、殉国者。原義は証人。

*2:ユダヤ人も含む